マックス・ヴェーバー『職業としての政治』と現代日本(1) | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 ロバート・ボルトの戯曲『すべての季節の男—わが命つきるとも』を50年前に論評したとき、私は、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』(1919年)を参照しながら、「信念(心情)倫理」と「責任倫理」の違いを強調した。この二つの倫理について、ヴェーバーの言葉を引用してみよう。

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 すべて倫理的な方向を持つ行為は二つの、根本的に異なった、調停し難く対立する原則のもとに立ち得るということであります。すなわち、「信念倫理的」な方向か、「責任倫理的」な方向かということであります。・・・(中略)・・・信念倫理」の原則に従って行為する—宗教的に言えば「キリストは正しきを行ない、その結果を神に委ねたもう」—か、それとも、自分の行為の(予知し得る)結果について責任を負わねばならぬという責任倫理の原則に従って行為するかというのは、測り知れぬほど深い対立であります。・・・(中略)・・・信念倫理と責任倫理とを妥協させることは不可能ですし、また、目的が手段を正当化するという原理一般を何らかの形で認めても、いかなる目的がいかなる手段を正当化するかを倫理的に決めることは不可能なのであります。(『ウェーバーの思想』河出書房、1965、217〜219p)。

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 今日の日本において、信念や心情の倫理と責任の倫理の違いが明確に認識されていないからこそ、感情の赴くまま、付和雷同的な大衆迎合主義が跋扈するのである。ヴェーバーの以下のような言葉と、日本人の政治認識とがいかにかけ離れているか。

(1)「責任倫理を奉ずるものは、人間の平均的な欠点を計算に入れます」(218p)

(2)「政治にとって決定的な手段は暴力性であります」(218p)

(3)「世界がデーモンに支配されていること、そして、政治に関係する人間、つまり、手段としての権力や暴力性に関係を持つ人間は悪魔と契約を結ぶものであること、そして、善からは善だけが生じ、悪からは悪だけが生じる、というのは彼の行為にとって真実ではなく、往々、その逆が真実であること、これを古代のキリスト教徒たちは非常によく知っていました。これを知らない人間は、実は、政治的に子供なのであります。」(220p)

(4)「政治とは、情熱と見識とによって固い板に穴をあけてゆく力強い緩慢な仕事であります」(226p)

 日本のマスコミは、「古代のキリスト教徒たち」と違って、善と悪の単純化した二元論を振りかざし、「政治的な子供」を大量生産している。かつては、評論家やテレビのコメンテーターの中にも、「政治的な大人」が少しは存在したが、今や彼らも視聴率第一主義の犠牲となって死滅させられてしまった。

 そのときの空気に迎合しない者は、テレビ画面や活字媒体から追放される。そして、政治家たちも、そのような「空気」に適合的な言辞を弄するか、「触らぬ神に祟りなし」として沈黙を決め込む。また、政治が「固い板に穴を開けるような緩慢な仕事」であるのに、即答を求めるような雰囲気がマスコミや世論では支配的である。だから、地道に成果を積み上げていくような政治手法は好まれず、大衆受けを狙ったパフォーマンス優先の政治家が一世を風靡することになる。