全体主義への序曲:ヘイトスピーチ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 ある特定の国や民族を標的にしたヘイトスピーチは、自国優先主義、人種思想、神がかり的選民思想に凝り固まったものである。様々な不満のはけ口として、またスケープゴートとして、ある国や民族を貶め、大衆の憎悪感を動員する。それは、ナチスの反ユダヤ主義と同じであり、この国を全体主義へと導いていく。

 ユダヤ人であるハンナ・アーレントは、1933年のヒトラーの政権掌握後ドイツからパリに逃れるが、その著『全体主義の起源』(1951年)の中で、次のように記している。

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 政治的に見れば種族的ナショナリズムの特徴をなすのは、自分の民族が「敵の世界に取り囲まれて」、「一人で全部を敵とする」状態に置かれているという主張である。・・(中略)・・種族的ナショナリズムはつねに、自分の民族は唯一独自の民族であり、その存在は他民族の同権的存在と相容れないと主張する。この種族的意識は、人間の本質の破壊に利用———ある意味では悪用———されるに至る遙か以前に、あらゆる政治を規制する理念としての統一的人類の可能性を理論的にも心情的にも否定してしまっていた。

  ・・(中略)・・人種イデオロギーに至っては、遂に人類の共通の起源を完全に否認し、人間すべてに共通の課題、すなわち人間という種族から人間性を実現する人類へと発展するという課題を否定してしまった。これと結びついたのが汎民族運動の種族的観念であり、それらは疑似宗教的選民概念の導入によって政治的議論に神秘のヴェールをかけ、自民族の存在をいわば究極的なるもの、歴史の進行に影響されることのあり得ない永遠なるものと宣言したのである。

  ・・(中略)・・個人主義的に理解された人間の尊厳に代わるものとして、種族的思考においては、同じ民族に生まれたすべての人間は互いに自然的な結びつきを持ち同一家族の成員間と同じように相互に信頼し合えるという観念が登場した。そしてこのような観念の与える温みと安心感は、アトム化した社会のジャングルで近代人が当然感じる不安を和らげるには、事実きわめて適切なものだった。運動が人間をマスとして把え画一化することによって社会的故郷と安心感の一種の代用品を提供し得るということを、全体主義運動は汎民族運動から好都合にも学ぶことができた。(みすす書房、第二巻170〜184p)。

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 ヘイトスピーチを平気で行うような人々は、「アトム(原子)化」された現代社会、とりわけ都市において「孤独な群衆」(D. リースマン)の不安感に訴えるが、そのような行動には「人類」の理念も「共同責任」の観念もない。

  今の日本人が噛みしめるべきは、「民主主義の基礎は人間の多様性にある」というハンナ・アーレントの言葉である。