国際政治学講義㉔:(4)20世紀の意味 ②社会主義の世紀・・❽ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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  1973年の石油ショックは、日本人にどのような影響を与えたのであろうか。戦後の日本人は、安全をアメリカに依存し、いわば温室の中で外気に晒されずに生きてきた。それが突然の寒気の襲来である。

 庶民もまた、国際政治の動向が自分たちの生活を左右することを学んだのである。日本人は、終戦後、1960年代までは、今日よりも明日、明日よりも明後日のほうが豊かになるという確信を持っていた。その確信を根底から揺るがしたのが、石油ショックである。

 先述したように、1968年は、フランス、日本、アメリカなど先進民主主義諸国で学生ら若者の反乱が起こった。それは、豊かな社会を実現した国々で、物取り主義ではなく、意思決定プロセスへの参加要求など、脱物質主義的な価値観に基づくものであった。その意味で、彼らは社会主義に背を向けたのである。

 石油危機の結果、日本人は再び物質主義的な価値観に戻っていった。トイレットペーパーや洗剤などの物が不足する状況では、そうなるのは当然である。また、それは政治的には社会主義への回帰ではなく、保守化の進行という方向をとった。

 戦後の高度経済成長は公害や福祉の遅れなどの負の副産物を生み、1960年代には全国で革新自治体が誕生した。しかし、石油ショック以降は、ばらまき財政を批判されて、革新首長は退陣していったのである。

 このような日本に比べて、社会主義の本家である西欧では、戦後、社会党や社会民主党はどのような道を歩んだのであろうか。

 まず西ドイツでは、社会民衆党(SPD)は、1950年代まではマルクス主義の強い影響下にあり、ドイツ再統一を掲げて、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)や北大西洋条約機構(NATO)などのヨーロッパ統合策を拒否し、再軍備にも反対した。しかし、東ドイツと対峙し、東西冷戦の最前線にあった西ドイツは、そのような政策が現実的ではないことを理解したのである。

 そこで、1959年11月にバート・ゴーデスベルクで党大会を開き、新しい綱領を採択する。新綱領は、国防軍を認め、カトリック教会とも和解し、さらには市場原理(マーケットメカニズム)を肯定したのである。綱領は、「SPDは労働者階級政党から国民政党になった」とうたった。

 外交政策も、ヨーロッパ統合推進へと方向転換し、1966年には、キリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)と大連立を組んで、政権に参加する。その経験を活かして、1969年には、大連立を解消し、自由民主党(FDP)をパートナーとするSPD主導の連立政権、ブラント政権の樹立に成功する。バート・ゴーデスベルク綱領から10年後のことである。