政治学講義⑧:(2)政治の成功と失敗②アパシーと熱狂 | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

 政治が目立たないことが善政であるが、それは人々から政治的関心を奪い取ることとは違う。政治的無関心、つまりアパシーとは善政によってひき起こされるものではない。

 アパシーは、むしろ悪政が惹起するものである。過剰な政治は、ときとして国民に絶望感を持たせる。政治家による「出力(アウトプット)」に対して、国民が「反応(フィードバック)」して、それが政治過程に「入力(インプット)」されることによって、代表民主政に期待される機能が全うできる。

 そのようなフィードバックが起こらなければ、政治家が政策の軌道修正をすることができなくなる。それは、「希少資源の権威的配分」という機能が十全に果たせないことを意味し、「平和な支配」としての政治が行われないことになる。

 全体主義国会においては、下手に政治的関心を持つと生命の危険すらある。そこは自由な経済活動に従事できるような環境ではなく、独裁者の指示に従うしかない。今日において、その典型は北朝鮮であり、中国やロシアにおいても、程度の差こそあれ、過剰な政治的関心は禁物である。

 ワイマール共和国のように多数の政党が分立し、「決められない政治」は、大衆に政治的疎外感を抱かせ、カール・シュミットの言うように「決断」のできる指導者を大衆は渇望する。「大衆の喝采」、つまり熱狂によって登場したのがヒトラーであった。「主権者とは、例外状況について決定をおこなうものである」。

 熱狂とアパシーとは、実は表裏一体と言ってよいのかもしれない。

 鼓腹撃壌とは逆に、自分の生業を投げ捨てて街頭行動に時間とエネルギーを費やすような状況を生み出すのは悪政であり、「平和な支配」ではない。デモのような熱狂に国民を導くような事態は避けねばならない。エーリック・ホッファーは、その著『大衆運動』の中で、大衆の熱狂について分析している。

 ファシズムやナチズムの特色を大衆の熱狂という観点から描き出したホッファーは、「活動的な大衆運動がひきおこす熱情は、運動がなければ創造的な仕事に注がれていたであろう精力を枯渇させる」と喝破する。そして、「熱狂的な精神状態は、それだけであらゆる形態の創造的活動を窒息させる可能性がある」ことに注意を促すのである。

 ホッファーのアフォリズム『情熱的な精神状態(The Passionate State of Mind)』もまた、短い文章ながら、大衆の熱狂が現代の独裁を生み出したことに警告を発している。

 因みに、小泉純一郎や小池百合子が展開したような劇場型政治は、大衆の「情熱的な精神状態」を作りだし、大きな政治変動をもたらしたが、指導者の力に陰りが見えると、大衆の熱狂は急速にしぼんでいく。

 1960年の安保闘争のときに、国会は「安保反対」を叫ぶデモ隊に囲まれ、東大の女子学生が死亡するという流血の惨事となった。これは「活動的な大衆運動」であり、政治が目立ちすぎる点では悪政である。そして、岸信介首相の退陣という結末となった。

 岸の後継の池田勇人は、「低姿勢」、「寛容と忍耐」のスローガンの下、所得倍増論を打ち出し、過剰な政治的関心を経済活動のエネルギーへと転換させた。これは「平和な支配」を回復させる知恵であったとも言えよう。