正直者(『論語』談片) 無用庵茶話0610 | 宇則齋志林

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トリの優雅な日常

おはようございます。

常に公明正大を心がける、正直者のトリです(私は、ウソをついたことがありません)。

 

若干旧聞に属するが、先日、自動車などの量産に必要な「型式指定」をめぐる長年の不正が発覚し、トヨタなど大手五社に国土交通省の立ち入り検査が入ったというニュースがあった。

また、長らく秘匿されていたジャニーズの性加害問題や、自民党の政治資金をめぐる不正が明らかになったニュースも、記憶に新しい。

どちらの場合でも、事実が「隠蔽」されていたことが問題であるという。

 

こういう話は、巷にいくらでもある。

学校はいじめを隠蔽し、会社はパワハラを秘匿し、芸能事務所は不行跡をひた隠し、どうしようもない職員や教師や芸能プロデューサーなどを野放しにしている。

彼らは不正直であると、多くの人が思っていることだろう。

 

しかし、悪事を働くことと、正直・不正直であることとは、あまり関係がないかもしれない。

我らの孔子先生が、こういうことを言っているからだ。

 

「葉公、孔子に語りて曰く、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて、子これを証す、と。孔子曰く、吾が党の直き者は、これに異なり。父は子のために隠し、子は父のために隠す。直きこと其の中に在り、と。」

 

金谷治訳では、こうある。

「葉公が孔子に話した、『私の村には正直者の躬という男がいて、自分の父親が羊をごまかしたときに、むすこがそれを知らせました。』孔子はいわれた、『わたしどもの村の正直者はそれとは違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。正直さはそこに自然にそなわるものですよ。』」(『論語』子路、岩波文庫、181頁)

 

「正直者のキューという男」というのが若干引っかかるが、宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)では「「正直で名を取った者があって」(300頁)となっている。

「躬」という字を調べると、「身体」「自ら」「自分でする」という意味であり、「直躬」は「正直を体現した人物」という意味であろう。

意訳すれば「全身これ正直者」となるから、「正直者の躬という男」は変だ(金谷訳の注には「『躬(み)を直くする者』と読むのがふつう」とある。ちょっと何言ってるかわからない)が、「正直で名を取った者」でも良いのかもしれない。

 

それはさておき、ここで孔子が力説しているのは、「悪事を隠蔽するのが正直だ」ということで、一見、逆説も甚だしい。

しかし、視点を逆にして「悪者」とされた側から見れば、何かをしでかして自分を守ってくれない組織には、居られたものではない、となるだろう。

自民党の議員たちにしても、こんなに簡単にトカゲのしっぽ切りをされるとは、思っていなかったのではあるまいか。

 

政治資金規正法違反についてはよくわからないが、例えば自分が会社なりに属していて、何かの問題が起きたとき、全くかばってもらえず、突如としてすべての責任を取らされて解雇されたら、残るのは不信感だけになると思う。

部署内のセクハラ・パワハラや、いじめを黙認した事実や、生徒に手を出したことなどを隠蔽するのはどうかと思うが、孔子先生は、何がどうあっても、まず自分の身内を信じることが大切だ、と言いたいのだろう。

 

少なくとも孔子は、何か問題が起きたとき、馬鹿正直に「犯人は私の身内です」と告発することを良しとはしていない、ということになる。

犯罪者をかくまう盗賊集団の活躍を描いた『水滸伝』の登場人物が、「英雄」とか「好漢」などと呼ばれているのも、そういう流れであるに違いない。

 

儒教において八つの徳目があり、「仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌」である(滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を参照)。

少なくとも、この中に「直」は入っていない。

しかし『論語』において、孔子が「直」に言及したのは、この話だけではない。

 

ところで、孔子が最も重要視したのは「仁」であった。

直接「仁とは何か」とは言っていないが、孔子の発言にこういうのがある。

「子貢問うて曰く、一言にして以て終身これを行うべき者ありや。子の曰く、其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。」(『論語』衛霊公)

 

全文訳は省くが、弟子の子貢が「一生涯実践すべき項目があれば、一言で言ってみてください」とむちゃぶりしてきたのに対して、「それは恕である」と答えている。

ここでは「恕」の説明に当たる「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」の方が有名かもしれない。

ここから浮かび上がる「恕」(ゆるし、おもいやり、いつくしみ)なることばは、さらに要約すれば「仁」であることが分かる。

そして、「直」は「恕」を介して「仁」の一側面であるというのが、トリの説である。

 

孔子が「直」に言及している他の場面を見てみよう。

孔子が「直」に言及している場面は複数あるが、一番印象的なのはここだろう。


「或る人曰く、徳を以て怨みに報いば、如何。子の曰く、何を以てか徳に報いん。直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ。」(『論語』憲問)


ここも全文訳は省くが、金谷訳では「まっすぐな正しさで怨みにむくい」とあり、宮崎訳では「平心を以て怨みに対応し」となっている。

「平心」の意味がよく分からないし、「まっすぐな正しさ」というと、むしろ「羊をちょろまかした父を告発する息子」に近くなる印象があって困るのだが、ここでの「直」は、「ゆるす、おもいやる」と考えればよいところだと思う。

 

怨みを残す相手に対して、「徳」のような最高の礼儀でなくても、「許し、おもいやり、慈しみ」という「恕」に近い感覚で、「直」を使っているとすれば、前に出てきた「父の罪を子が隠し、この罪を父が隠す」という「正直者」の在り方に近くなるのではないだろうか。


儒教は道徳的に厳しい印象があるが、こういうグレーゾーンを排除せず、温かく抱擁しようとする孔子のやさしさのようなものが、『論語』には見え隠れしている。

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※いえ、目を閉じてはいましたが、全然眠ってなどいませんでしたよ。