おはようございます。

生きる力をはぐくむ教育を提唱し主導する、教育学者のトリです(現実には、自分が生き残れるかどうか、という瀬戸際にいます)。

 

どうにも、生きづらい世の中だ。

昔から文学のテーマであったが、今もなお、「生きづらさ」を抱えて、どうにか虫の息で生きている人は多いだろう。

かくいう私もその一人だ。

何をするにもデジタル化のため、何かをしているという実感が非常に乏しい。

 

「ネットで簡単」とかいうものに限って、「ID」「パスワード」が分からないと、その時点で全然使えない代物になる。

昔は電話をして、係の人と長話をしながら模索できたことも、今は容易ではない。

そもそも電話対応をしていないところの方が多いからだ。

 

何度試しても「IDかパスワードが違います」と表示されるが、何がどう違うのかは教えてくれない。

どちらかが間違っているのか、あるいはどちらも間違っているのか、知るすべはない。

あるのかもしれないが、私には分からない。

 

つまり、私には、生きる力がないということになる。

昔は簡単だった。

生きるために働く場合、事務仕事でなければ、農家や工事現場へ行けばよかった。

今は、どこへ行くにも、先ずはスマホでネットから、ということになっている。

 

スマートフォンを使いこなす人たちは、うまくポイントを貯めたり、割の良い仕事を見つけたりできる。

引きこもりでも、高額の収入を得ている人がいるらしい。

ある意味、良い時代になったのかもしれない。

 

ある日の新聞紙上に、教科書についての話題が載っていた(読売新聞)。

現在正式な教科書は紙のみで、デジタル教材は補助的な扱いである。

2030年には、「紙のみ」「完全デジタル」「紙+デジタルのハイブリッド」の、いずれもが正式な教科書として認められる見通しだという。

 

デジタル先進国のノルウェーでは、今、デジタル教材の見直しが推進されているという。

ノルウェーでは2015年以降、デジタル端末を利用した授業が激増していた。

その結果、2018年~2022年にかけてOECD(経済開発協力機構)によるPISA(国際学習到達度調査)において、読解力・数学的応用力・科学的応用力の各部門の成績がガタ落ちし、過去最低をたたき出したんだそうな。

 

ノルウェーにおける脱デジタル教育を旗振りするカーリ・ネッサ・ノルトゥン教育相は、日本の教育に対して、このように言及した(もしくは呪詛した)。

「デジタルの機器や教材に過度の重点を置けば、学習上の大きな問題が発生する恐れがある。私たちが犯した過ちを繰り返さないように。」

これは、半分正しく、しかし恐らく半分間違っている。

 

今やAIが急速に発展し、もう少しすると、AIなのか人間なのか分からない存在が生まれてくると思われる。

デジタル化の波は、既に世界を席巻している。

今後、旧人類は座して滅びるか、時代へ的確にアジャストするしかない。

2030年からの教科書デジタル化は、その際の「生きる力」を培う教育だともいえるからである。

 

今でもそうだが、あと四半世紀の後、2050年ともなると、もうほとんどの人がこうなっているだろう。

AIがきちんとまとめてくれるから、読解力はいらない。

AIが創造的に働いてくれるから、応用力もいらない。

AIが相手をしてくれるから、家族も友人もいらない。

 

こういうユートピアが、目前に迫っている。

だから、頑張っているカーリちゃんには申し訳ないが、いまさら紙の教科書で読解力を養うなど、ちゃんちゃらおかしい。

子どもが生きていくうえで必要な力をつけさせることを教育というなら、完全デジタル教科書が悪いといういわれはない。

 

ヨーロッパ各国は、子供のSNS使用を禁止するなど、焼け石に水の政策を展開している。

しかし、悪というのはしぶといもので、押さえつければ押さえつけるほど、増大する。

やくざを一掃したら、もっとひどい犯罪グループが乱立したのも、この法則の通りだった。

 

あきらめるしかない。

たとえば、自宅で倒れて救急搬送され、病院で死亡した人が、最後に見ていたのは、家族の顔ではなく、スマホの画面上の、縁もゆかりもない有名人が投稿したSNSの写真だった、という時代が来ているんである。

ゲーテは、今わの際に「もっと光を」と言ったとされているが、現代人はこういうだろう。

 

「俺のスマホはどこだ?」

 

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※時代に取り残されて去って行く。