楽ちん論 無用庵茶話0617 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

古今東西の音楽に詳しい、音楽評論家のトリです(ですが、楽譜は読めません)。

 

先日、NHKの番組で、亡くなったフジ子・ヘミングさんについての特集を見た。

フジ子さんの弾く、リストの「ラ・カンパネラ」が随所に流れて、それがすごく良かったから、遅ればせながらCDを買って聴いている。

音が「滴るような」という表現がぴったりする、せせらぎの光のような、音のきらめきが心にしみいってくる演奏だ。

何より、ご本人が楽しみながら弾いているのが良い。

 

ちなみに、日本語(中国語)では「音楽を楽しむ」のように、名詞と動詞に同じ字が使われる。

手元の『新字源』(角川書店)で「楽」を引くと、

「①ガク ②ラク ③ゴウ ④ロウ」

と、四つの発音が載っている。

発音が違うと、意味が異なるのである。

 

①「ガク」と発音すると、「音楽」の意味となる。

②「ラク」は「たのしい」、「よろこばしい」の意。

以下は、あまり一般的ではないが、

③「ゴウ」は「このむ、あいする」または「ねがう」の意。

④「ロウ」は「いやす」「おさめる」の意。

 

ここまでが中国語(漢文)の範疇で、日本語で「らく」と言った場合、「たやすい、やさしいこと」そして「やすらか(快適)」という意味が追加される。

中国語には、「たやすい」とか「やすらか(快適)」という意味はない(「やすらか」には「いやす」が一番近いが)。

よく言う「楽ちん」は、「よろこばしい」とか「たのしい」ではなく、「易しい」とか「やすらか」な状態である。

「楽あれば苦あり」は、どちらかといえば「喜んだり楽しんだりしていると、あとで苦しむ」ではなく、「楽ちんなことをしていると、あとで苦しむ」という意味あいが強いと思う(水戸黄門の歌は「良いことがあれば、悪いこともある。どっちも経験するだろう」という意味である)。

 

まとめると、中国語における「楽」は、①music ②happy enjoyable(③④は省略)である。

日本語では、それに、⑤easy comfortable relaxed が付け加わる。

「楽ちん」とは、「easy comfortable relaxed」(容易で、快適で、リラックス)そのものだろう。

 

ところで『論語』には「これを楽しむ者には如かざるなり」(雍也)という言葉がある。

この「楽しむ」は、原文の意図は「エンジョイ」であるが、日本語で読む限りにおいて、「簡単に、楽ちんに行う」という意味を伏在させている、とも言える。

「楽ちんであるから、楽しい」のである。

 

さて、翻って、冒頭のフジ子さんのピアノはどうだろうか。

最期は、指が動かなくなってかなり苦労されている映像が映されてもいたけれど、「リストを弾くために生まれてきた」というかの女のピアノは、実にやすやすと、楽ちんに弾いているかのようである。

息をするように、指が躍っている。

 

世の中には、もっと技巧の優れたピアニストはいるかもしれないが、さしあたってフジ子さんの弾く「ラ・カンパネラ」が心に響くのは、その楽ちんさの故ではないかと思う。

世の中には苦労話が好きな人が多くて、フジ子・ヘミングの特集番組も、無国籍になったとか、病気で耳が聞こえなくなったとか、そういう側面にばかり重点を置いていたようであるが、私が知りたかったのは、彼女がどうやって、あんなふうにやすやすと、楽ちんに弾けるようになったのか、ということである。

 

そりゃまあ、「練習のたまもの」には違いないけれど、では、どういう練習をしたら、「楽ちん」になるのか。

おそらく、「楽ちん」を目指さない限り、「楽ちん」にはならないと思う。

それはまた、「これを楽しむ」ことにおいても同様で、「楽ちん、かつ楽しい」という境地は、「楽をしながら、楽しむ」以外に至る道はない。

 

話として好まれるのは、「努力と根性で粘り強く」という方かもしれないが、実際に何かをものにしようとするなら、「楽ちん、かつ楽しく」やる以外ないと思う。

フジ子さんは「ちょっとくらい間違っていてもいい」と言っていたが、そういうアバウトさが、むしろ魅力の一部になっているのである。

 

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※私が唯一「楽ちん、かつ楽しい」と思えるアクティヴィティは? はい、もう書く必要もないですね……。