無趣味な男 無用庵茶話0624 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

多芸多才、108つの趣味を持つ男、トリです(実際には、他の趣味なんかに時間を割いていられないほど、昼寝にいそしんでいます)。

 

先日、とあるお寺の奥さんから、

「趣味なんてない方がいい、という記事はまだですか」

というコメントをいただいた。

 

はて?

そんな記事を書く約束をした覚えがない。

というか、そもそも「趣味なんかない方がいい」と、思ったことがあるだろうか。

また、そもそも、自分には「趣味」といえるものがあるのだろうか。

 

全活動のうち、生命維持に直接関わるものと、金を稼ぐことに関するものを除いて、どうしてもそれをしなければならないという必然性がないにもかかわらず、それをしていたいと思うものを「趣味」と呼ぶなら、読書や音楽鑑賞などが該当するだろう。

しかし、「テレビを見る」や「窓から外の景色を眺める」、「カフェでパフェを食べる」などを趣味に加えて良いものか。

 

ちなみに、私は自分の「読書」は、精神の食事だと思っているので、どちらかといえば「生命維持」に近い。

とはいえ、漫画や軽めの小説などを「生命維持」というのも気が引ける。

では、それらが「趣味」かといえば、そうとも言い切れない何かがある。

 

武道はどうだろうか。

現在はさぼり倒しているが、一時期熱心に道場へ通っていた。

そのとき、「僕の趣味は合気道です」と、言えていたか。

 

結局ほとんど上達もせず、適度な運動をしに行っていただけだから、武道家としては「趣味程度」であるに違いない。

しかし、「趣味は合気道です」と胸を張れる気がしない。

熱心に通っているとき、「これは趣味だ」という認識ではなく、「心身の健康維持に必要なもの」と思っていたからだ。

 

無論、読書や合気道で金が儲かったことは一度もないから、いずれも「趣味程度」と表現されて間違いではない。

いわんや昼寝をや、である。

 

思うに、対象との距離の取り方の問題なのだろう。

プロフィールに「趣味は読書、音楽鑑賞、映画鑑賞」と平気で書く人は、読書にも音楽にも映画にも、それほど興味はないか、どっぷりはまり込んでいるかどちらかである。

 

「趣味:読書」という人に、「何読んでるの?」ときくと、たいてい今流行りのミステリだったり、タレントのエッセイだったりする。

「フッサールの『イデーン』にとりかかっています」などという人はまずいない。

そういう人は、読書を「趣味」と認識していないからだ。

 

もし、読書を趣味と認識していないにもかかわらず、「趣味は読書」と書いたとすれば、それは他に何も書くことがなかったからに違いない。

しかし、本当の意味での「趣味」をいうならば、本業が別にあるのに「フッサールを読んでいる」とか、「ベートーベンの月光を楽譜から調べて、最も優れた演奏はないかと聴き比べている」というのが本筋だろう。

そのためには、膨大な時間が必要で、つまりヒマ人でなくてはならない。

 

件のお寺の奥さんは、トルストイから売れ筋のミステリ、旅行記からビジネス書、そして一般向けというには難しげな数学や理科の本や歴史の本を読み漁り、アマゾンプライムで映画評論家のように映画を見比べ、エアロバイクを漕ぎながら、倍速で人生相談チャンネルを視聴し、ピアノとバイオリンを習い、早朝に散歩をし、山に登り、コーヒーをたしなみ、インド風カレーを食べ歩くという、超ハードな生活を送っているが、それができるのは基本的にヒマだからだろう。

 

だから、ここから定義するならば、趣味というのは「ヒマなときに何をするか」で決まる、といえる。

つまり、純粋な娯楽として、ヒマな時間をどう使うか、が「趣味」である。

そうなると、「趣味なんかない方がいい」とは、とても言えなくなる。

 

お寺の奥さんに、「ヒマな時間の読書と山登りと映画鑑賞とコーヒーとバイオリンとピアノと・・・以下略をやめてください」と言うと、「私を殺す気か」と激怒されるだろう。

「小人閑居して不善」を為さないために、「趣味」は存在しているのかもしれない。

 

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※自由な時間は、ほぼすべて昼寝に費やしていますから、「不善」を為すヒマがありませんのです。