とりえのない男 無用庵茶話0527 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

孔孟老荘をはじめとする中国思想に詳しい、文学者のトリです(それらの思想が何かの役に立っている、という自覚は、まるでありません)。

 

『老子』には、世の常識を覆す考え方が随所に見られる。

『老子』に慣れ親しむと、世間の常識の方が変なんじゃないかと思えてくるが、例えばこういう文章が出てくる。

 

第二十章

「学を絶てば憂ひ無し。唯と訶と、其の相ひ去ること幾何ぞ。美と悪と、其の相ひ去ること何若。人に畏らるるも、亦た以て人を畏れざるべからず。芒として其れ未だ央(つ)きざるかな。衆人は熙熙として、太牢に饗するが若く、春の台に登るがごとし。我は泊焉として未だ兆さず。嬰児の未だ咳(わら)はざるが若し。纍として帰する所無きが若し。衆人皆な余有り、我独り遺(うしな)ふ。我は愚人の心や、惷惷(しゅんしゅん)たり。俗人は昭昭として、我は独り昏(くら)きが若し。俗人は察察として、我は独り悶悶たり。芴(こつ)として其れ海の若し。芒として止まる所無きが若し。衆人皆な以(もち)ふる有るも、我は独り頑なに以て鄙(ひが)む。我独り人に異なりて、食母を貴ばんと欲す。」

 

書き下し文では意味不明だから、拙訳を掲げておく。

 

「学問をして賢くなってやろうという向上心さえ捨てれば、不安から解放されるだろう。

そもそも「正解」と「不正解」にどれほどの差があるというのか。

 

その見解が「善い」とか「悪い」などと断じることに、どれほどの意味があるというのか。

学識で他人を圧倒してやろうと思っても、却ってこちらが逆襲されるはめになってしまうばかりだ。

学問の行く先は茫漠として、行けば行くほど曖昧で、極めつくすことなど到底出来ない。

 

それにしても、議論に興じる学者先生たちはみんな嬉々として、ご馳走を並べた宴会に招かれ、春の高台を散策しているかのように楽しそうではないか。

私は頭の働きも停止してしまい、何のアイディアも閃かず、笑わない赤ちゃんのように愛想もない。

しょぼくれいじけて、帰属する学派もない。みんなは精力的に知識を吸収しているが、私だけは何もかも失ってしまった。

 

私の愚かな心は、それでもまだべんべんと学問への未練を引きずっている。皆さんが良い考えを思いつき、明るく輝いているところで、私ひとり暗黒に沈み込んでいる。

皆さんが明快に判断される場面でも、私ひとり答えを出せず、ぐずぐずうろうろしている。

遥かに霞む学問の海を、昏く寂しく、茫洋と行く当てもなく漂い続けるしかない。

 

みんなどこかに得意なところがあるのに、私だけは頭が固くて僻みっぽいだけだ。

でも、こんなに他人と違ってしまった私だから、お母ちゃんからお乳をもらえているのかもしれない。

(自分の力で学問しようという考えを捨てたから、大いなるタオの母からエネルギーをもらえている)。」

 

ここで描かれている老子の自画像を、一言でいうならば、「とりえのない男」だろう。

こういう人物がいますといって、「憧れますか?」と聞けば、多くの人が首を振るだろう。

「サウイフモノニ、ワタシハナリタイ」とか、間違っても言いそうにない。

 

世の常識では、学び続け、向上心を持つことで、「憂い」を克服するのが良い、とされる。

しかし、老子は「そもそも学問をやめれば、憂いはない」と、向上心をまるごと否定する。

そして、「こういうとりえのない男だから、タオの母とつながっていられるのだ」と、自慢げに言うのである。

 

『老子』の翻訳や解説書はたくさん出ているが、ここに着目したものはまだ見たことがない。

たぶん、ここに着目したら、学問を否定することになり、ひいては今自分がやっている「老子の解説」という学問的取り組みをも否定することになりかねないから、皆さんしれっとスルーしているに違いない。

 

しかし、心配は無用だ。

「とりえのない男」として、しょんぼり生きていくことを自分に許しさえしたら、もれなく「タオの母」とつながり、頑張らなくても生かしてもらえるからである。

 

この激動の世にあって、生き残り、生きていくためには、人より優れたところ、自分だけの強みを持たなくてはならないと思って、日夜頑張っている人も多いだろう。

「それ全部、いりませんから」と、老子は言うんである。

「人に褒められたい」「相手を負かしたい」「人より上に行きたい」「自分の力で多くをつかみ取りたい」、そういう思いから自由になり、向上心を捨てたとき、「タオの母」が現れる。

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※「やる気ある者は去れ」は名言だと思う。タモリさんは『老子』を読んでいたのだろうか。