おはようございます。
老子をはじめとする中国哲学を教えている、コーネル大学教授のトリです(「こう寝る大学」寝学部昼寝学科に所属しています)。
最近、老子について書いていなかったので、久しぶりに話題にしたい。
老子については、多くの人が翻訳を出したり、ああだこうだと述べているので、知っている人からすると「いまさら」の感が強いかもしれないが、多くの人が見逃しているポイントがある。
それは一番有名な「無為自然」「無為にして為らざるはなし」についての見解である。
老子は確かに、「何もしなければ(無為)、万事うまくいく(無不為)」(37章他)と言った。
これを、例えば金谷治は「理想の政治である」という(『老子』講談社学術文庫、1997年、122~124頁)。
しかし、老子はそんなことは一言も言っていない。
まず、「何もしなければ、万事うまくいく」について、金谷先生はこのように訳している。
「真実の「道」のはたらきは、いつも必ずことさらなしわざのない「無為」の動きであって、それでいて、すべてのことをりっぱになしとげている。」(前掲書、122頁)
この訳が含意するのは、「すべてのことをりっぱになしとげようとするなら、「無為」の動きにまかせなさい」ということだ。
これはつまり「物事を成就させるために、無為であれ」と言っていることになる。
物事をうまくやるために、「無為」という手段を使う、ということになる。
これでは、老子の言いたいことと真逆であり、本末転倒する。
だって「無為」を使うという時点で、それは「有為」だから。
「有為」と「無為」は別物だ。
『老子』の主張の多くが、非可換であることに、多くの人は気づいていない。
例えば、「大浴場の壁にたまたま開いていた節穴をたまたまのぞいたら、女湯が見えた」というのと、「女湯をのぞくために、壁の穴をのぞいた」というくらいの違いがある。
あるいは「毎日、夜中にアイスクリームを食べていたら、体重が増えた」というのと、「体重を増やすために、毎日夜中にアイスクリームを食べた」の違いはお分かりになるだろうか。
この二つは、やっていることは同じようなことだが、まるきり別物である。
老子が「無為」というとき、それは「有為・無為」の「無為」ではなく、二極を離れた、絶対的な「無為」のはずである。
「無不為」とセットで語られるため、方法論のように見えているだけで、実際には方法論ではない。
また、たぶん読者の便宜のために「政治」にかこつけて語られているのだが、政治をどうこうしようという意図は老子にはない。
『老子』において、「政治」はメタファーである。
このことに気づかないと、老子の政治は「愚民政策」だとか、実際にはなしえない理想論にすぎない、ということになってしまう。
はじめから、政治には興味がないのだと気づかなくてはならない。
例えば、人を食ったような「小国寡民」とか。
「犬や鶏の鳴き声が聞こえるのに、隣の国の人とは顔を合わせることもない」なんて、そこにブラックユーモアを感じ取れない人は、よほどどうかしているんだ。
古代の聖典だから、まじめなことしか書いていないと思うのは、想像力がなさすぎる。
老子は、たぶん古代中国随一のユーモリストだったに違いない。
その点がわかる章もいくつかあるが、それはまたいつか、機会を改めて書きたいと思う。
※老子近影。