幸福論 無用庵茶話0325 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

幸せの青いトリです(病弱で、顔色が青いだけです)。

 

世間を騒がせ続けている松本人志論争(もはや「論争」というべきだろう)は、とどまるところを知らない。

人のうわさも七十五日というが、誰もなかなか忘れてくれないところに、松ちゃんの人気具合がうかがえる。

人気者はつらいね。

 

などと、のんきなことを言っている場合ではない。

そういうことを言ったという情報のみ出て、まだ誰もそこを問題にしていないものが一つある。

それは、うそかまことか、飲み会の時に松本さんが言った(とされている)、

「今日はこの中の誰が、俺を幸せにしてくれるんや」

というセリフの是非である。

 

これが事実なら、大変悲しい。

仮にも、松本さんはプロの芸人であり、プロの芸人は、自分しかいない場合を除き、誰か他者とともにいる場合、その相手を幸せにする側の人であるはずだからだ。

その人が、「誰か俺を幸せにしてくれ」なんて、恥ずかしげもなく言うとは、どういう雲行きなのだろう。

 

また、もう一側面として、松本人志ほどの位人身を極めた芸能人にして、まだ「自分は幸せでない」と思っていたことが驚きである。

人気者で仕事も順調でお金持ち、飲み会で女性に迫れるほど体調もいいときたら、もう何も望むものはなさそうであるが、人知れぬ苦労や苦悩やストレスがあったのだろうか。

あったとしても、それを他人に押し付けて自分だけ幸せになろうだなんて、虫が良すぎる。

というか、すでに「幸せ」という言葉の意味を誤解している。

 

幸せというのは、本来自分一人でなるもので、他人の動向は無関係である。

「自分の機嫌は自分がとる」という言葉もあるくらいだ。

いかなる事態に際会しても、幸せであることはできると、達人はのたまう。

 

また、他人が関与している場合、その相手なりが「幸せ」だと思ってくれたとき、それが逆照射される形で、自分も幸せを感じられるという仕組みになっている。

家族や友人を強引に自分の好きなレストランへ連れて行き、誰もその料理に満足していないのに、自分だけ「うまいうまい」と言って食べて、満足だという人がいるだろうか。

自分の好みのレストランへ連れて行って、みんなも「おいしい」と言ってくれたとき、はじめて自分もうれしくなるのではないだろうか。

 

だから、そのとき本来なら、松本さんはこう言うべきだったのだ。

「今日は皆さんのおかげで、とても幸せな時間を過ごせました。ありがとう。さて、これから、俺と一緒に、もっと幸せになりたい人はいませんか?」

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※楽しみは 真昼間から昼寝して ごろりちゃらりと夕を待つとき