番付 無用庵茶話0401 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

 

驚異の合格率を誇る、カリスマ塾講師のトリです(自分で受けて合格できそうなのは、偏差値35以下の学校に限ります)。

 

受験シーズンも終り、今度は入学式、悲喜こもごもの春である。

進路が決まった人も、決まらない人も、同じ花を見ている。

ある日、電車に乗ってぼんやりしていると、こういう広告が目に入った。

 

お岩学院(仮名)「なんで、私が京大に。」

 

一瞬「なんで、私が京大なんかに入らなきゃならないのか」という意味かと思ったが、反語的用法であった。

 

「なんで私のような者が、京大に入ることができたんだろう」

という喜びの声だったのだ。

そりゃそうか。

 

この予備校では、

「55段階個別指導」「ダブル教育」「科目別能力別授業」が用意されているそうで、つまり、どんな人もどこかのカテゴリーに入れられる。

屁で「はとぽっぽ」を奏でられる人も、どこでも昼寝できる人も、その特技は無視され、学力の偏差値で振り分けられ、どこかの段階に入れられる。

 

こういうことに、疑問を持つ受験生はいるだろうか。

いたら、お気の毒だが、底辺校に甘んじるか、トリのようになることを受け入れるしかない。

どっちも嫌だという人は、お岩学院(仮名)にでも入ってお勉強してください。

 

しかし、こういうところに疑問が持てるという人に、見どころがないわけではない。

「世界に一つだけの花」とか「ナンバーワンよりオンリーワン」とかいうくせに、どうして人は人をランク分けしたがるのか、と問うことは、深い人間理解に通じるからだ。

 

また逆に、こういう問いは愚問だと思う人もいるだろう。

人は必ずどこかのコミュニティーに属さなくては生きていけないし、その中での序列が知りたいというのは、根源的な欲求であるからだ。

相撲に番付がなかったら、つまらないように。

 

「番付」といえば相撲というイメージだが、江戸時代から日本では「番付」文化が盛んであった。

観光地や芸人など、ありとあらゆるものが、ランク付けされている。

相撲の番付は、その多数ある番付の一つに過ぎない。

 

現在、偏差値によって学校がランク付けされているが、そういう無粋な分け方をやめ、いっそのこと「番付」にしてはどうだろうか。

「東大」「京大」を東西の横綱にして、「旧帝大」を大関、そして「早慶」だの「関関同立」だのを関脇、小結とか前頭とかにして並べてみれば、殺伐とした受験も、もっと文化的な気分で見られるだろう(無理か)。

 

番付は、上に行くほど字が大きく、下に行くほど小さくなり、序の口あたりは虫眼鏡で見ないと読めないくらいである。

自分の出身大学を探して、豆粒大の文字で書かれていると、がっかりするかもしれない。

※うちの地元の神社にいる、願かけの御神馬。