もっと主体性がない(その②)空心齋閑話0830 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

空の理論について簡単明快に解説する著作多数、仏教学者のトリです(何せ「空」ですからね。そんな本はどこにも存在しません)。

 

先日、「主体性がない」というテーマで記事を書いたところ、コメントを頂戴した。

「なんか騙されているような気がするが、それがどこだかわからない」というものだった。

読んだ人の多くが、そう感じたかもしれない。

 

あの記事は、嘘ばかりだったかもしれない。

しかし、書いた本人には、人を騙す意図はなかった。

というか、あれらのことばは、客観的にすべて真実である。

 

論理的に書くと、こうなる。

「あそこに書いたことが真実であるのは、書かれた言葉が全てウソだからだ」

『般若経』に特有の、「即非の論理」である。

 

もっと地道に記述するとこうなる。

「人に主体性はない」という主張は、以下のように裏付けられるのではないだろうか。

 

例えば、学校などで「主体的に考え、手を挙げて意見を発表しなさい」と先生が言ったとする。

そこで、手を挙げて発表するなら、それは「他者に言われて発表した」のであって、自分で主体的にしたわけではない。

もっといえば、この場面で渾身の主体性を発揮して「手を挙げない」ことにしたり、「マクド食いに行ってきます」と言って教室を出ようとすると、「主体性に欠ける」と言われたり、後者の場合捕まってひっぱたかれる恐れがある。

 

「今はみんなで授業に参加するときだろうが」と言って怒られるのだ。

つまり、教室への滞在を強制されている。

そのどこに、主体性があるだろうか?

 

このあたりの矛盾を「矛盾である」と感じられる感性を、人は早い段階から削ぎ落とされてしまう。

そして、「個性的・主体的であれ」というメッセージと「社会に対して従順であれ」というメッセージを、同時に受信させられる。

ダブルバインドである。

 

さて、では心を入れ替え、「おれはどんな時でも主体的に生きよう」と決めたとしよう。

しかし、ここで「主体とは何か」という疑問に捉われる。

この自我の入れ物を仮に「主体=私」と呼んでも良いが、では一体「主体=私」の範囲はどこからどこまでなのか。

 

教室にいたくなくて「マクドに行ってきます」と言って出て行くのは、一見主体的だが、「マクド」は他者の用意したものであり、ハンバーガーが旨いという経験は、厳密に言えば自分が一人で作り上げたものではない。

皆初めは必ず両親や友人など、別の人と一緒に行くものだからだ。

 

ここへきて人は、「個人」と「社会(周囲の環境)」は実は切り離せないものだということに気づくだろう。

「主体=私=環境」が、とりあえず今一番正確な記述である。

そうなると、「主体的である」ということは「社会に従順である」ということと同義であり、「私を主張する」とは「環境に埋没する」ということと同じことになる。

 

昔の歌ではないが、「君たちがいて、ぼくがいる」のであり、同時に「ぼくがいて、君たちがいる」のである。

そうなると、「ぼく」という単体を、すべてから独立して扱うことはもはやできなくなる。

だから、究極的には「ぼく」などいない。

 

でも、どうしても、ここにこうして存在しているような気がして仕方がない。

それはそうだ。

しかし、仏教ではそのことを「妄想(虚仮・幻想)」というのである。

 

妄想というのは、「ピンクのゾウさんに、鼻の頭をかじられた」、という類のものではない。

「いまここに、確固としたリアリティーを持って、この俺が確かに存在している」、というのを「妄想」というのである。

 

だから、さっきから「主体性はない」というんである。

※かつてはあったが、今はないもの。もしくは、かつても今もなかったもの。