おはようございます。
子どもたちの自立を促し、主体的な学習をアシストする、教育学者のトリです(自分はぐうたらで、周囲に流されやすい生き方をしています)。
巷では、「主体性を持って、自主的に行動するのが良い」とされている。
例によって、これにいちゃもんがある。
よく考えてみると、これまで「主体的」に行動したことがなかった。
多くの人は、このような日常を送っているだろう。
朝起きる。
飯を食う。
仕事(学校)に行く。
帰宅する。
寝る。
驚くべきことに、このどこにも、主体性の関わる場面がない。
起きるのは、朝が来たからだし、飯を食うのは時間が来た(腹が減った)からだし、仕事(学校)へ行くのは、仕事(学校)が来いというからだし、帰宅するのは、家があるからだし、寝るのは時間が来た(眠気を催した)からだ。
そのどこにも、自分の自主性は関与していない。
確かに、朝飯にご飯ではなくパンを食べるとか、帰宅時間を一時間遅らせる、といった裁量は出来る。
しかし、誰かがパンを作ってくれなかったら、パンを選択することはできないし、帰宅が一時間遅れるのは、それを促す用件があるからで、自主的に行動していると見えて、実際には他者に依存しまくっている。
自分がやっていることはごくわずかなのに、何でも自分でやっているような幻想を見ているのである。
「俺は日々自主的に行動している」と自信を持って言い切れる人は、実際には、自分の妄想に気づいていないだけだ。
というか、そもそも「自分が存在している」と思っているのが、すでに妄想である。
多くの人は、自分が経済的に自立していると錯覚している。
しかし、会社に所属していたり、誰かと取引があるから、収入が入ってくるのである。
つまり、常に他者ありきである。
例えば大谷翔平が年収85億円あって凄い、というが、メジャーリーグや球団があり、ファンがいて初めて成り立っている。
大谷君個人で85億円を作り出しているわけではない。
また、お金が使える社会を維持しているのも、自分個人ではない。
むしろ、この世に自分はいない、と思った方が良いだろう。
労働者(社員、部下)の代わりならいくらでもいる、と思っている人もいるだろう(実際にそういう発言をする奴がいる)。
事実だ。
代わりならかつてもいたし、これからも絶えることはないだろう。
総理大臣がいなくなっても、代わりならいくらでもいる。
社長がいなくなっても、代わりならいくらでもいる。
勘違いしてほしくないのは、替えがきくから自分はいないのではなく、自分がいないから替えが効くのである。
「じゃあ、ここにいるこの俺は何なんだ」という(落語の「粗忽長屋」のような)疑問をお持ちの方もおられよう。
そういう人にはこう問いたい。
「自分が本当は何者であるのか、主体的に考えてみたことがありますか?」
※ちょっと何言ってるか分からない?