主体性がない 空心齋閑話0823 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

子どもたちの自立を促し、主体的な学習をアシストする、教育学者のトリです(自分はぐうたらで、周囲に流されやすい生き方をしています)。

 

巷では、「主体性を持って、自主的に行動するのが良い」とされている。

例によって、これにいちゃもんがある。

 

よく考えてみると、これまで「主体的」に行動したことがなかった。

多くの人は、このような日常を送っているだろう。

 

朝起きる。

飯を食う。

仕事(学校)に行く。

帰宅する。

寝る。

 

驚くべきことに、このどこにも、主体性の関わる場面がない。

起きるのは、朝が来たからだし、飯を食うのは時間が来た(腹が減った)からだし、仕事(学校)へ行くのは、仕事(学校)が来いというからだし、帰宅するのは、家があるからだし、寝るのは時間が来た(眠気を催した)からだ。

そのどこにも、自分の自主性は関与していない。

 

確かに、朝飯にご飯ではなくパンを食べるとか、帰宅時間を一時間遅らせる、といった裁量は出来る。

しかし、誰かがパンを作ってくれなかったら、パンを選択することはできないし、帰宅が一時間遅れるのは、それを促す用件があるからで、自主的に行動していると見えて、実際には他者に依存しまくっている。

 

自分がやっていることはごくわずかなのに、何でも自分でやっているような幻想を見ているのである。

「俺は日々自主的に行動している」と自信を持って言い切れる人は、実際には、自分の妄想に気づいていないだけだ。

というか、そもそも「自分が存在している」と思っているのが、すでに妄想である。

 

多くの人は、自分が経済的に自立していると錯覚している。

しかし、会社に所属していたり、誰かと取引があるから、収入が入ってくるのである。

つまり、常に他者ありきである。

 

例えば大谷翔平が年収85億円あって凄い、というが、メジャーリーグや球団があり、ファンがいて初めて成り立っている。

大谷君個人で85億円を作り出しているわけではない。

また、お金が使える社会を維持しているのも、自分個人ではない。

むしろ、この世に自分はいない、と思った方が良いだろう。

 

労働者(社員、部下)の代わりならいくらでもいる、と思っている人もいるだろう(実際にそういう発言をする奴がいる)。

事実だ。

代わりならかつてもいたし、これからも絶えることはないだろう。

総理大臣がいなくなっても、代わりならいくらでもいる。

社長がいなくなっても、代わりならいくらでもいる。

 

勘違いしてほしくないのは、替えがきくから自分はいないのではなく、自分がいないから替えが効くのである。

「じゃあ、ここにいるこの俺は何なんだ」という(落語の「粗忽長屋」のような)疑問をお持ちの方もおられよう。

そういう人にはこう問いたい。

 

「自分が本当は何者であるのか、主体的に考えてみたことがありますか?」

 

※ちょっと何言ってるか分からない?