おはようございます。
大ヒットを記録したハリウッド映画『ミッキー』『リンボウ』などで、監督・主演したシルベスター・スタボーンこと、トリです(映画は虚飾と幻影の象徴ですね)。
某国営放送の朝のドラマ『どんちむちむ』(仮名)で、結婚に際して立ち塞がる障礙に、自信を失っていた主人公の野武子(仮名)を励ますため、沖縄から上京した姉の了子(仮名)が、
「野武子は野武子のままで良いんだよ」
という場面があった。
「ありのまま、そのままのあなたで良いんだ」という力強いメッセージで、脚本家や演出家は、これが共感を持って迎えられるだろうと思っていたことだろう。
自信を持って送り出した、名シーンだと。
しかし実際には、次の放送で了子は、力いっぱいありのままの姿で生きる兄のドン・ケンシュウ(仮名)にぶち切れ、
「このポッテカス!」
と毒づいているのである。
妹の「ありのまま」は肯定するが、兄のは否定する、というのだ。
どっちやねん?とツッコミを入れたくなる。
このように、「ありのままのあなたで良いんだよ」というメッセージは、非常に危険なものである。
相手が美人(イケメン)で優しく、賢く、元気で有能である場合は、少々の欠点があっても、「そのままで良い」と言えるが、逆に不細工で暗く、陰険な性格なうえ使えない奴だったら、多少の美点があっても、「そのままで良い」と言えるかどうか。
言えるというなら、元首相を銃撃した容疑者や、障碍者施設で大量殺人を犯した犯人にも、同じことを言っていただきたい。
「君は実に自分らしく生きたんだね、偉い偉い」
と。
そういうことを言いそうな人を、一人知っている。
浄土真宗の開祖、親鸞聖人(故人)だ。
「罪悪甚重の凡夫であればこそ、極楽往生が遂げられる」と言った人が、たかが元首相を銃撃したくらいで「お前は地獄めぐり決定」とは言わないだろうから。
親鸞聖人に限らず、優れた宗教者は、この世が幻だということに関して、強いリアリティを持っている。
そして、親鸞聖人の推す「極楽浄土」は、不二の法門を基調としている。
「不二法門」は、『維摩経』の「入不二法門品」でその全貌が語られているが、要は二元論の否定である。
では何故「一元論」と言わないのかというと、一元論にしてしまうと、却って両極端が際立ってしまうからだ。
唯一神を立てる宗教において、神と人の対立が際立つようなものである。
だから、一元も二元も否定し、「不二」というのである。
・・・続く。
※近藤朱鳳書「無茶苦茶」