世は幻② 火曜漫談・増刊号 | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

歩歩是道場とばかりに、荒行の日々を送る行者のトリです(最近は暑いので、風呂場で水行をしています)。

 

宗教に対して、否定的、批判的な日本人が多いらしい。

家の宗旨は「何々宗」でも、個人としては圧倒的に「無宗教」が多いという。

思想信条は個人の勝手だが、仏教というのは超実践的実際的な宗教なので、これを学んで実際に役立てないのは勿体ない。

 

昨日から、「あるがまま」「不二」ということについて書いていたような気がする。

禅でもよく「即今只今、あるがまま」と言われる。

本当にそうであるなら、修行などする必要はないんじゃないのか、と思っていた。

禅のことばのほとんどは幻(マーヤー)である。

 

しかし、だからと言って何もしなければ、今度は世間の幻(マーヤー)にからめとられ、結局幻を見たまま人生を終わる可能性が高い。

修行をしても、しなくても、どちらへ行っても、結局幻(マーヤー)に踊らされてしまう。

そこを指摘したのが『維摩経』の入不二法門品であった。

 

『維摩経』は部派仏教(小乗仏教)批判の経典としても有名だが、批判が当たっているかどうかはさておき、「不二」という見所を示したことは価値があると思う。

個人的に悟りを目指す小乗系の仏教教団では、例えば異性との接触を禁じているが、そうすればそうするほど、異性を意識するようになり、二元対立が深まってしまう。

かといって、これを推奨すると、立川流のように邪道に落ちる危険性がある。

 

維摩居士は、だから「不二」の見所を提示する。

例えばこういうことだ。

 

多くの男は、橋本愛ちゃんにしなだれかかられたら、何もせずにその場を立ち去る自信はないが、ガンバレルーヤよしこが相手だと、蹴り倒してでも逃れる自信があるだろう。

これは「美人/ブス」という二元に落ちているのである。

かといって、橋本愛ちゃんだろうがよしこだろうが、構わずに逃げ出す、という場合でも、「自分と相手がいる」という点で二元に落ちている。

 

「不二の法門」では、このような二元的対立を幻とみて、実体的に判断しない。

このことはまた、別の体験にもあてはまる。

 

例えば、何かものすごく嫌なことがあったとき、それを幻と思えるかどうかによって、その後の展開が変わってくるのである。

くそ暑い中、何キロも歩かなくてはならず、熱中症気味になってへばりながら歩いていると、ひどい靴擦れになり、絆創膏を貼ろうとした瞬間、こむら返りが来てひっくり返った、というような場合、多くの人が、

「ちくしょう、ついてない。むしゃくしゃするから、誰か殴ってやる」

などと思ってしまう。

そういうとき、全ては悪い方へ転び、その後しばらく一ミリも良いことなど起きない。

 

ところがすぐさま、IKKOさんのように指でも立てて、

「ま~ぼ~ろ~し~」

と言えば、全てがリセットされるのである。

 

これが『維摩経』に書かれている内容の、実践的解釈となります。

仏教は、このように、非常に有用な宗教なのです。

 

※物理化学的構成要素において、彼女と橋本愛さんとの違いは検出されていません。

 

※では皆さん、ご唱和ください。