”しのたまわく” | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

ヨゲンノトリならぬ、イチャモンノトリです(残念ながらヨゲンノトリさんは、アマビヱさまほど話題になっていない)。

 

今一度、「いちゃもん」の定義を申し述べたい。

いちゃもんは、結局いちゃもんに過ぎない、というのがその定義である。

相手を鋭く批判するとか、誤りを指摘するとか、頭からバカにするとか、瑕疵をあげつらうとか、そういうものではない、ということである。

いちゃもんは、言われた方も、

「なんだよ、つまらない難癖をつけるな」

と、やや不快になって終わる、という性質を持っている。

もしくは、笑って見過ごせる。

そういうのが、いちゃもんである。

 

ところが、世の中には、いちゃもんの度を越して、人をバカにする人もいる。

皆さん子どものころ、友達や兄弟と口喧嘩をしていて、

「バーカ」

「バカって言う方が、バカなんだよ」

というようなやり取りをしたことと思う。

 

そう、人をバカにすると、全てもれなく自分に跳ね返ってくるのである。

ここにご紹介するのは、そういう人たちを冷静に見つめる人のブログだ。

※おなじみ、レイジイ先生のブログ。

 

ちなみに、「バカと言う方がバカ」という論理について考察しておこう。

これは、極めて良く出来たトートロジーである。

通常相手を「バカ」と決めつけるのは、その相手の見解や行動に誤りを見出したからだ。

ところが、「相手をバカ」と言う方が、「バカ」に相当すると、この論理は言う。

つまり、「相手をバカだと罵る行為」自体が、誤りである、と言うことを言っているのだ。

しかし、「バカと言う方がバカ」と言って、相手をバカにし返すと、今度は自分自身が「相手をバカと言う奴」となってしまい、「バカと言う方がバカ」のループに陥る。

結局、双方が「バカ」であることになってしまう。

 

レイジイ先生のご指摘は、そこを突いたものだった、と思う。

「政府の愚策を指摘してバカ呼ばわりする人がいて、それをあげつらうホリエモンがいる」という構図を、さらに上から眺めると、「そこにはバカしかいない」という観察結果が得られるだろう。


しかし、そこで終わってはならない。

「そこにバカしかいない」と思った段階で、自分も既に「バカの一味」であることを忘れてしまっているからだ。

「お前らみんなバカだ」

と言った瞬間に、

「バカって言う方が、バカなんだ」

となってしまうからである。

 

あるいは、「人をバカと言う人」と「バカ」は違う、と思われる向きもあるかもしれない。

しかし、この論理はある意味で「般若の論理」なのである。

般若の論理とは、よく知られた『般若心経』の「色即是空、空即是色」である。

このことばは本来「色は空である(AはBである)」という意味ではなく、「色はその本体を持っていない(Aは非Aである)」という意味だ。

『金剛般若経』では、例えば「生きているということは、生きていないということである。だから、生きていると言われる」というような形で出て来る。

つまり、「色即是空、空即是色」は「色は色というものではない。だから、色と呼ばれる」という展開となる。


「バカと言う方がバカ」を、この論理に照らすと、

「他人の誤りを発見しバカと決めつける賢い人(A)はバカ(B)である(AはBである)」

ではなく、

「他人の誤りを発見しバカと決めつける賢い人(A)は、賢い人ではない(非A)。だから賢い人と言われる(Aは非Aであるが故にAである)」

及び、

「バカと言われる人(A)は、バカではない(非A)。だからバカと言われる(Aは非Aであるが故にAである)」

という論証式となる。

世の論客の皆様方には、このくらい理論武装した上で、いちゃもんをつけてほしいものだ。

※こちらもおなじみの、子曰く「ゲロゲーロ」。