弾けるビート | 宇則齋志林

宇則齋志林

トリの優雅な日常

おはようございます。

カスタネット・ロックンローラーのリュシエンヌ鰍沢こと、トリです(その他、得意な楽器は、カリンバです)。

 

このごろ、家で体操をするときに、ロックを聴いている。

といっても、ごく普通の柔軟体操などで、有酸素運動になるようなことはしていない(スタティックストレッチを先にしてしまうと、ランニングなどのパフォーマンスが落ちるので、お気を付けください)。

家にある、ぶるぶる振動マシンに乗ってみたところ、その後明らかに体調がおかしくなったので、そういう運動はまだ時期尚早だったと判断し、柔軟体操しかしていない。

 

ただ、柔軟体操も、ゆっくり時間をかけてやれば、「ヨーガ」になりうる。

ヨーガでは、自分の身体の内部を、どれだけ意識できるかということを重視するので、身体の柔軟性は気にしなくてもいいらしい。

この、ゆっくり筋を伸ばしていくような体操を、三分間とかやっていると、時として気が滅入ってくるので、ロックを聴くのである。

 

よく聴くのは、B’Z、レディー・ガガ、シャキーラなどで、最近はずっとキノコホテルである。

ミラス、ニルヴァーナは、CDを買ったが、世界観が理解できなかった。

先日も書いたが、キノコホテルは、どうも自分の体質に合っているらしい。

マリアンヌ東雲の声は、時として甘ったるすぎる気がするときもあるが、概ね好感が持てるし、あの、打ち込むようなリズムと、通俗的なビートが、何とも心地よいのである。

分かりやすいメロディと、レトロな曲調、そこはかとないB級感が漂うところも好きだ。

ちなみに、「キノコホテル」というユニット名は、多分「茸火照る」を含意していると思う。

 

ハイカルチャーの良さは誰しも認めるところだが、例えば歌舞伎や能楽をそのまま見て面白がれる人はどれくらいいるだろうか。

能の謡曲だけとか、文楽の素浄瑠璃を聞いて、意味が分かる人はいるだろうか?

N響とウィーンフィルの演奏の違いを聴き分けられる人はどれだけいるだろうか?

バーンスタインは永遠に新しいが、ブルーノ・ワルターはもはや古い、という根拠はあるのか?

こういうハイソな文化が分かるには、ある種の文法を知らなくてはならない。

そのための訓練を積むには、いくばくかの時間とお金がかかるので、そういう文化に親しむ人のことを、セレブというのである。

「クラシック」というのは、古いという意味ではなく、「クラス=階級」から来ていることばである。

 

トリも以前まではハイカルチャーを理解しようと努力していたこともあったが、やめた。

ハイカルチャーを知ったかぶりで云々して間違えるのは、シークレットブーツを履いてこっぴどく捻挫するようなものだ。

さりとて、サブカルチャーの「腐海の森」に、単身もぐりこむ勇気もない。

というわけで、ハイカルチャーもサブカルチャーも、両方中途半端に、つまり気ままにつまみ食いをするということに決めたわけです。

※公園で、一人くつろぐマリアンヌ東雲(キノコホテル支配人)。