みなさんのおかげさまで!
しんらいライフサービス株式会社 寺﨑道弥です。
※前回記事に上書きしてしまいました
10月です。
今朝はこの秋一番寒い朝だった都内です。
って言っても、例年からすると暖かいわけで、今後7~9月の働き方を考えなければならない時期が来ていると思います。
さて、今日の表題。
ワタクシ、10/1でしんらいライフサービス入社20年を迎えました
ワタクシの入社日は平成15年10月1日、当時28歳。
今年は平成35年計算になりますからね。
長いようで短いような、短いようで長いような。
一度二度生きる事を諦めた28歳でこの会社の存在に救われて、今思うことは「自分自身の環境設定って大事」ということ。
何故こう思うに至ったのか?
負け続けた過去から検証していきます。
お暇な方は、ワタクシの昔語り、自分語りにお付き合い下さい
無駄に長いよ
ワタクシの経歴をざっと書きますと、公立の中高を経て浪人して大学へ、と特に代わり映えしません。
小中で野球、高校では体育会系帰宅部
学校の長期休みやGWには必ず旅をしていました。
それが今で言う「第三の場所」だったのでしょうね。
引きこもりではなく、単なる外こもり(逃げ込み)でありましたが。
中高時代は電車バス飛行機等の公共交通機関、大学へ入るとサイクリング部でノウハウを身につけ、自転車やバイクでテントやライダーハウスの活用で旅の幅は広がりました。
当時意識すらしていませんでしたが、変に自立していて浮世離れしていたタイプだったので、周囲や先輩から「就職して働くのは向かないね」って言われ続けていましたし、自分でもそれは薄々感じてました。
同級生のほぼ全員が就職活動を始める大学4年の春、やはり「オレには普通に就職するのは無理だろう」と自らそのレールを選択せず、ネットもない当時では誰も知らない八重山(与那国、波照間、西表島等)で、サトウキビ狩りのバイトしたりしてキャンプしていました。
(この時点で、一般的にはドロップアウトして終わってヤツですよね)
「じゃあ何するのか?」と自信に問えば、実は既に決めていて、ずっと秘めていたプロボクサーを目指すことでした。
普通に就職もできるけど「やって後悔するのか?やらなくて後悔するのか?」と問われれば、迷いなく「やるなら今しかねぇ♪」by長渕剛でしたから。
当然、卒業後についてどうするか?は周囲に聞かれましたし、心配されました。
親にも周囲にも「会社勤めとか無理だから、バイトしながらそのうち決めるわ」なんて体にして、週6回のジムワークしながら、バイトしてました。
やっていたバイトは、倉庫で荷分け、大学生協、消防設備の点検。
朝はロードワーク、日中はアルバイト、夕方からはジムワーク。
周囲に隠してたわけだけど、みるみるうちにアレな身体になっていくわけだから、何となくは察していたでしょうね。
振り返れば、ちゃんとした仕事もしてないしお金も大してなかったけど、夢に向かって黙々と練習とバイトの日々。
振り返れば、あの時の自分が一番人生で輝いていたと思う。
(生まれ変われるなら、もう一度やりたい!)
就職活動すらしなかったワタクシを卒業前から「脱落者」とか「世捨て人」扱いする人も多く、「絶対見返してやる」と闘志を燃やし続けていた。
普通に就職した同期とたまに会うと決まって自分の入った会社の話題とかで、次第に話が合わなくなっていくし、自分が「社会人」という概念から外れ社会に出ていないことが、どんどん焦りとなっていた。
ボクシングの聖地、後楽園ホールで得意のキレキレの右ストレートでKO勝利して「アイツすげぇじゃん!」ってバカにしたヤツらを見返すイメージが頭の中にできていて、そのためだけにジムワークに励んでいた。
しかし、視力が良くなかったことや話せば長くなる諸事情により、その道を諦めざるを得ないことに。
目標を失い、自称「夢追い人」がそうでなく、ただの「大卒フリーター」なった途端、何もない抜け殻に。
夢破れた25歳、とりあえずバイクで夏の北海道へ傷心旅に。
「誰かの車にこのまま轢かれて、人生を終えてもいいかな」なんて思っていた。
旅先で知り合った人達と触れ合う中で、少し元気を取り戻したワタクシ。
「とりあえず2年遅れた就職活動してみよう」「とりあえず遅れた人生を取り戻そう」と動いてみるものの、世間は冷たかった。
同期達が就職活動するような会社は既卒というだけでエントリー不可、第二新卒や既卒OKと謡っている会社にたくさん履歴書を送っても、ほとんど連絡なし。
繋ぎで鉄道会社の時給1,000円で募集されているラッシュアワーの「押し屋」にすら面接にたどり着けない。
大卒、アルバイト以外の職歴なしの履歴書の空白の2年間に、世間は想像以上に厳しかった。
「大学卒業して就職してない奴なんて、一癖二癖あるに違いない」というレッテルからでしょうか?
新卒以外は、何かダメですか?
就職活動しなかったら、何かダメですか?
純粋に夢追っただけなのに、何かダメですか!
一回試しに雇ってみてからじゃ、何かダメですか?
「既卒で夢追ってたけど、再び正規で働きたい」って人を排除する理由を論理的に説明できますか?
その頃から「横並び新卒志向=正」への反発、アルバイトや派遣がなかなか這い上がれない、非正規労働者への扱いに怒りを感じ、社会全体へも恨みを持つように。
(こういった反発心が、今の経営に存分に活かされているのでしょう)
必死に動いた人生の遅れた辻褄合わせは、全く上手くいかなかったのです。
その後父親からの紹介で、再起を掛けて栃木のテーマパークの物販の販売促進の仕事を受け、順調に売り上げを伸ばして結果を残すものの、1年足らずで政治的な事情により撤退。
プロボクサーになれず、普通の就職も叶わず、栃木で数字残しても撤退。
撤退が告げられたときには、隠れて声上げて大泣きしました。
頑張れば報われるはずなのに、結果出したのに、仲間との関係良好だったのに、強制終了。
ワタクシの送別会でゆずの「またあえる日まで」でみんなで泣いたのは、今でも鮮明に覚えているし、この歌を聞くとあの時が蘇ってきて今でも泣いてしまう。
いつしかワタクシには、負け癖と魂込めて何度やっても上手くいかない状況に、自分への諦めと社会への怒りが溜まっていきます。
それでも奮起し、ビルメンテナンス会社へ拾われます。
20年も前のビルメンは、本部社員ですら、今で言うコミュ障が基本ですから、普通に会話できるワタクシはもうそれだけでエース級だし、幹部候補
既卒でアピールできる職歴もない、何もかも遅れている26歳、とにかく必死でした。
設備部で簡単な設備ぐらいは理解できるようになり、定期清掃班へ配置換え。
通称かっぱぎと呼ばれる道具の取り扱いに苦慮しながらも、足手まといではなく何とか「1人工」になれるよう、毎日フルパワー。
何もないオレだから、少しでも仕事が出来るようになるべく、段取りも技術も優秀な先輩(その後定期清掃班の総責任者になる)に「教えて下さい」と頭を下げて、何もかも教わり、いつしかその方は師匠な存在になっていた。
しかし、その定期清掃部は休みがほぼなく、クレームも多く、おまけにコミュニケーションも悪い。
会社を全体的に見ても、離職率は半端ないし、何か冷たくて、会社に絶望して辞める率が高かったですね。
翌月の予定を見ると、普通に1日~27日まで予定入ってるんですよ。
勤務時間というか拘束時間は12~14時間で、寝に帰るだけの日々で、たまに夜間作業も。
休み交代制かって?
建前はそうだけど、人数少ないからほぼ休めないし、会社に「人募集して欲しい」旨何度もアピールしても、相場より安い値段で求人出すもんだから、日常清掃やるような年齢層しか来ないし、質も悪い。
頭数は必要だけど、やる気もなく、経験もなく、技術もない人なら、仕事の邪魔なだけ。
こうなるとね、何事も「自分達でやった方が早い」って雰囲気になるんですよ。
確かに何も言わずに、とんでもない阿吽の呼吸とスピードで作業が進むんです。
それが「俺達は凄いんだ」「少ない人数でやってるから会社に利益貢献している」って、いつしか快感になっていく。
30代~50代前半ぐらい中心のメンバーでしたが、比較的仕事もスムーズに回っていました。
時には慰労兼ねて、帰りに飲みに行くことも。
でも、明らかな過重労働で得られた、その快感と高揚状況は長くは続きませんでした。
休みは事実上取れないし、拘束時間は長いし、体力的にもキツいですから。
(完全に労働基準法違反だったけど、残業代請求できない雰囲気だった)
翌月の予定表を見れば、27~28日まで詰まってて、クレーム処理の想定日時を加味すると、もう休みないじゃん!
増える退職、増えるクレーム、増える負担、増えるプレッシャー、増える絶望感、増えるいざこざ、増える酒量。
完全に負のスパイラル。
必死に会社に現状を伝えるものの、手を打ってくれない、本気で手を打つ気のない上層部。
それでも「負けない」と必死になるワタクシ。
酒量は増えるが食は細り、体重は減り、仕事が頭から離れず、神経高ぶりキチンと寝られない日が増えていきます。
オレ気合が足らん、自転車とボクシングで培った体力と気力では絶対負けないのだ!
それでも終わらない連続29日勤務。
いつしか、頭の中がフワフワな感覚になる日が増え「何でオレはこれぐらいでへこたれてるんだ」と自己嫌悪になっていきます。
一晩中動悸が止まらず、ほぼ寝られないで仕事へ向かう日が増えていきました。
駅のベンチに座ると、お尻の骨が当たって痛いんです。
「あー、この痩せ方はちょとヤバいなぁ」
ボクシングやってた時は67キロキープ、その時既に65キロ。
年上の可愛い女子社員が「寺﨑君、瘦せたみたいだけど大丈夫?」なんて心配してくれますが、ワタクシは会社期待のエースですから爽やかに「どうにか頑張りますよ」なんてごまかします。
こんな眠れず、食べられず、休めない日々がさらに1か月続くと、もう限界。
ある朝、電車に吸い込まれていきそうな感覚を覚えます。
これ自殺未遂者が振り返ってよく言う現象ですよね。
すれ違う人と目が合うと、自分が責められてるような幻想にも襲われます。
人の目がとにかく怖くて、ずっと下見て歩いていました。
その頃は、24時間常に変な動悸がして、自分のカラダか自分のじゃない感覚になっていました。
ほんの少しだけ良好だった現場では口数も減り、不満な空気が包んでいました。
そんな中、ある日の相模大野の生命保険のビルでの清掃後のことでした。
当時はワタクシが責任者で、仕上がりチェックの見回りをしていた時に、ワックスが乾ききっていないところに、足跡がしっかり付いていました。
(これだけ一緒にいると、靴裏で誰の足跡か覚えてしまうものなんです)
その足跡は、ワタクシが師匠と慕い、技術も姿勢も本気で学んだし、可愛がってくれた定期清掃班の総責任者のものでした。
当然、修正しましたけど、本気でショックでした。
乾いているか?手で確かめてから歩くルールでしたし、もしや?があるから靴下で歩くんですよ。
それなのに…。
師匠からの私に対する嫌がらせか、クレームにして、ワタクシの足を引っ張りたいのは明らかな行為でした。
(このビルも靴跡の場所も鮮明に脳裏に焼き付いています。)
信じていた人に裏切られた感、そんな信じていた自分の愚かさに、もう精神も限界に。
その数日後、朝目覚めたものの、本気で身体が起こせず、起きられませんでした。
人間ってね、とことんまでいくと、自分の意思で起きられなくなるんですよ。
何とか、電話で「起き上がれない」「休む」旨伝えます。
翌日立てるようになり病院に行きましたが、その前から自分が今どういう状況か?何もかも分かってました。
診断結果は栄養失調。
一週間程休むと少しづつ回復してきて、迷惑かけたから早々に現場復帰。
しかし、数日すると、また動悸がして寝られないようになります。
10日も経たずにもう限界、また休まざるを得ないことになり、全て終了。
退職届書いて、会社に挨拶を終えた時には「ようやく、この呪縛から離れられる」と清々かったのを覚えています。
また負けた。
プロボクサーになれず、普通の就職も叶わず、栃木で数字残しても撤退、ビルメンすら勤まらなかった。
何やっても上手くいかない。
頑張れば何とかなる、頑張れば誰かが見てくれている、そんなの嘘だ。
魂込めてやったって、ダメなものはダメ。
負け。
オレが証明したようなもんだ!
カッコよく言えば「何事も100%の力出して頑張った」と言いたいところだけど、謙虚に言ってもどれだって90%の力ではやっていたと自負している。
今でも、何が悪かったのか? 時間を戻せるとしたら、どうしたらいいのか?
具体的な答えは出ていないが、自分自身をどんな環境に配置するのか?
という「環境設定」は重要な気がしている。
(ここについては後述します。)
カラダもメンタルもやられて、空虚感と喪失感しか残らなかったのに、更に追い打ちをかけられたのが、周囲の反応だ。
両親とも、そんな自分に冷たかった。
冷たかった、というかどういうことなのか?理解できなかったのか?
オヤジからは「ノイローゼになった」と精神病のレッテル貼られ、更に辛い想いをした。
「貴方が盛んに強要した『努力』を山ほどして、こんなにも全力で頑張ってきたのに、その扱いですか?」とね。
退職してしばらくは、外出しないと気が済まないタイプの人なのに、一週間ぐらい家にずっといた。
起きて、食べて、昼寝して、テレビみて、という何もない、何もする気の起こらない日々。
退職して劣悪環境から離れてからは次第に食欲も戻り、体重は比較的早く戻っていったものの、謎の動悸は続いたし、突然涙が溢れて来たり、と自分のカラダが自分のモノでないような状況はしばらく続いた。
今で言えば「過重労働によるうつ病発症」で済む話なのだが、当時は「うつ病」なんて言葉すら一般的でなく「ノイローゼ」と一色単にされていたからね。
その数年後から日本では「うつ病休職」とか認知され始めたんだ。
(そんな意味でも世間一般の先取りしていた、ワタクシ)
少しづつ回復してきて暇になったものの、会った人に数々の負った傷をまた攻撃されたくないので、会うのは決まって「受け入れてくれそうな人」「ワタクシにとって不都合な事は言わなそうな人」に絞っていた。
それぐらい病んでいたし、人に会うことが怖い時期だった。
大学の同期あたりには、負け組で合わす顔もないし「道弥今何やってるの?」と聞かれる事が一番怖くて、会合はとにかく避けていた。
どうしても祝いたい仲の良い同期の結婚式に呼ばれたものの、みんなキラキラしていて、ワタクシは「何も仕事していない」「キャリアらしいキャリアなんてない」居心地の悪さに、絶望感しか感じなかったのを覚えている。
そんな休養期によく遊んでいた、いや構ってもらっていたのが、15歳入学当初から付き合っている高校時代の同級生だ。
地頭が凄く良く何でもできるタイプだが、ワタクシの高校では珍しく、高校出ても就職せず、八百屋、郵便局深夜勤、マック深夜勤等しながら、海外旅に出たりする自由人だ。
彼は黙って人を受け入れるタイプだし、アレコレと詮索もしないのだ。
何も今までと変わらないし、ワタクシにとって都合の悪い事は一切言わないし、全てを受け入れてくれた。
彼とつるんだことで、随分と鏡にさせてもらったし、会話する中で自分が少しづつ再生されていくのを感じていた。
彼には本当にお世話になった。
一生恩義に感じているし、お金で返せるものでもない。
自然体の彼は「何も世話したつもりはない」と言うだろうし、それが真実なのだろう。
この頃には「そろそろ社会復帰したいから、試しにバイトでもしてみようか?」とおもっていたものの、また動悸がしたりしたらどうしよう?というトラウマがあり、なかなか次のステップに踏み出せずにいた。
その年は、星野阪神が優勝した年(平成15年)で、彼とは都内の球場はもちろん、甲子園や広島市民球場まで行った。
星野監督は「勝ちたいんや!」それが口癖で、ファンの口癖にもなっていた。
ワタクシも負けてばかりだったけど、やっぱり「勝ちたいんや!」という心境だった。
そして優勝。
たかが自分の好きなプロ野球チームが優勝しただけだけど、勝手に自分も報われた気がして、自然と泣いていた。
そんな頃、オヤジから「掃除ぐらいできるだろうから、フラフラしてるならやってみるか?」と、当社への誘い。
当社は不動産業を営むオヤジの関連会社の1社に過ぎなかった。
当社がハウスクリーニングをやっている程度の話は聞いていたが、それ以上は何も知らなかった。
「何をしたい」もなかったし、その誘いを断る理由もなかったので、とりあえず面接だけ行ってみる事に。
ここから、ワタクシの再生の物語が始まるのです。
※長すぎるので、前編後編に分けます。
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