坂本龍一×福岡伸一 | BOXOUTの先生のblog

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「ここで終わりじゃないんだ、次はあそこに行かなければいけないんだ」

対話の末にたどり着いた人生観

 

山に登らなければ

次の山は見えない

【坂本龍一×福岡伸一】「ここで終わりじゃないんだ、次はあそこに行かなければいけないんだ」対話の末にたどり着いた人生観_1
©NHK

 

坂本 福岡さんとは、同じニューヨークを拠点にしているということもあって、2〜3ヵ月に1度ぐらいの割合でお会いしていますよね。食事をしながら「最近、何を研究しているんですか?」「どういう本を書いているんですか?」などとその時々の話題を話していると、あっという間に4時間くらい経ってしまうんですが、お互いの関心が向かうところがとても近いので、不思議な感じすらするほどです。僕も聞きかじっただけの生物学の知識で話をさせてもらったりして、毎回、とても面白い話ができますね。

福岡 音楽と生物学と分野は違っているのに、わたしたちが目指すゴールというか、見ているビジョンは同じという感じがするんですよね。坂本さんの華々しいキャリアと並べるのはおこがましいんですけれども、坂本さんは「音楽とは何か」、そしてわたしは「生命とは何か」ということを、それぞれのなりわいを通じて探求しています。音楽という芸術と生物学という科学は非常に違う営みのように見えるけれども、この世界の成り立ちが一体どうなっているのか、それを捉えたいということにおいては、どこか重なるところがあるのかもしれません。

坂本 そうなんですよね。実際には、科学者である福岡さんと僕とでは、やっぱりずいぶん違うなと思うところもあるんです。たとえば、福岡さんは論文を書き慣れていることもあって、話をするときも、いつもイントロから中盤、結論という見通しをきちんと設計されていますよね。テーマに沿ったノートを作ってきていただいたりして、まるで贅沢な個人教授を受けているような氣持ちになります。一方、僕の性格は本当にランダムで、ただ、その場その場の思いつきでやってきただけなんですね。今「華々しいキャリア」とおっしゃいましたが、一直線の時間の流れに乗った美しい曲線を描くという感じではまったくないですし、作るアルムも毎回、大きく変わってしまうんです。ある意味、飽きっぽいというか、変わりたいから前とは違うものをやるということを続けてきて、今日に至っています。 思いつきであっちに行ったり、こっちに行ったり……自動筆記のようなものですね。言い換えると、何かのゴールに向かっていくというより、ゴールがどこにあるのかさえわからないのに、ただ歩くのが楽しいという感じなんです。そういうところは、僕が作る音楽にも反映されていると思います。彫刻家が粘土をいじったり、石を削ったりするのと同じで、自分が見つけたたくさんの素材を「これはいいね」なんて言いながらいじっていたら、何らかの何かができるというだけなんです。そんな風に対照的であっても、福岡さんと話していて興味が尽きないというのは、今おっしゃったように、やはり共通する大きな疑問をシェアしているからだと思います。しかもそれは、お互いにかなり大事な本質的な部分だということが多いですね。

 

一歩踏み出さないと

どこがゴールかわからない

【坂本龍一×福岡伸一】「ここで終わりじゃないんだ、次はあそこに行かなければいけないんだ」対話の末にたどり着いた人生観_2
©NHK

 

福岡 今、坂本さんが「一直線に進んで来たわけじゃない」とおっしゃったことで、今西錦司のことを思い出しました。彼は著名な生物学者であるとともに山がとても好きで、生涯に1500以上の山を登ってきた人なんですね。「なぜ山に登るのか」という問いに対する答えでは、エベレスト初登頂を目指したイギリスの登山家ジョージ・マロリーの「そこに山があるからだ」が有名です。一方、今西錦司の答えは、なかなかふるっています。「山に登るとその頂上からしか見えない景色があって、そこに、次の山が見える。だからまたその山に登りたくなるということを繰り返しながら、自分は直線的ではなくてジグザグに進んできた」と、彼は言ったんですね。

坂本 山の上をジグザグに、ですか。今西先生がそのようなことをおっしゃっていたんですね。

福岡 そうなんです。この今西錦司の言葉で大事なところは、そこに行ってみないと見えない風景がある、ということですよね。音楽の探求者としての坂本さんと生命の探求者としての私も、やはりいろいろなプロセスを経ながらその場所に行って初めてわかったことがあると思います。

坂本 そうですね。実は『async』というアルバムを作っていたとき、8ヵ月ほどの製作期間の中盤から後半ぐらいは、まるで山登りをしているようだなぁ、と思っていたんです。曲作りをしていて、作り出してみないとどこが山頂かわからないという感覚がありました。言ってみれば、地図のない登山をしているような感じで、登ってみないとその山がどのぐらいの高さで、どのような経路があって、どういう景色が見えるのか、そしてどこがゴールか一歩踏み出さないとわからない。それがある日、「あっ、これがゴールだ」と実感した瞬間があって、今まで見えていなかった次の山が見えたんですね。「ここで終わりじゃないんだ、次はあそこに行かなければいけないんだ」と思いました。

福岡 ああ、なるほど。そこに来て初めて見えたということですね。

坂本   そのとき、登ってみないと向こうは見えないのだということを、とても強く実感しました。

福岡 今西錦司はダーウィンの進化論を批判したのですが、そのことで大変な論争を巻き起こしました。しかし私は、今西錦司は非常に優れた生物学者だったと思っています。彼が発した言葉の一つひとつを振り返ってみると、今の進化論的な言葉やロジック、あるいは進化論のロゴスというものでは回収できないビジョンを見ようとした人であったということが伝わってきます。ロゴスとは、言語、論理、アルゴリズムなど人間の脳が作り出した世界のイデアのことであり、これに対するのがピュシス、つまり自然です。「進化というものは、変わるべくして変わるのだ」という今西の進化理論は、ロゴス的には漠然としていて見えないものであるため、現在の科学では否定的に捉えられていますが、これは今回の対談の一つのテーマになってくると思っています。 

 

 

内なる自然(ピュシス)に

気づく

坂本 よく思うのは、僕たちが住んでいるニューヨーク、あるいは東京という大都市では、大きなビルは硬い頑丈なガラスで自然が遮断されてしまっているし、見渡すとほとんど人工物しかなくて、申しわけ程度に木が立っていたりするけれども、自分自身は人間が作ったものではなくて、木と同じ、丸ごとの自然なのだということです。一番身近な自然は海や山ではなくて自分自身の身体なんです。

福岡 そうですよ。人間も自然生命体、自然物です。

坂本 自分自身が自然だということに氣がついてから、僕はいつもそのことが氣になるようになりました。自分の身体は自然物なのでコントロールできない。毎日変化するのが当たり前で、風邪も引きますし、病氣になりますし、生まれたら死ぬわけで、やがては崩壊していくことになる。これはもう、絶対のエントロピーの法則に従っているわけなんですね。

福岡 そうです、そうなんです。

坂本 ところが、はたしてどれだけの人がそのことを意識しているのか、ということですよね。まるで自分も人工空間の中に生まれ育ったかのような感覚で生活し、仕事をしているという人はとても多いと思います。

福岡 そう、自分の身体は制御可能だと思っているんですよね。本当は、ピュシスである自分自身にロゴスが侵入しないよう、我々は氣をつけないといけないんですけれどもね。ロゴスはピュシスをコントロールしようとするものなのですから。

坂本 人間という生き物には、エントロピーの法則に抗って崩壊させまいぞと頑張るというところがありますよね。たとえば、都会の風景を埋め尽くしているような、非常に反自然的な人工物を作るだけではなく、作った人工物はなるべく崩壊しないようにしたいと、人間は考える。崩壊するということは壊れて自然物に戻っていくことですけれども、それは嫌だと言って、なるべく長持ちさせたいと抗っているわけです。でも、エントロピーの法則の力が強いので、どんなに抗ってもいつかは崩壊していくことは避けられない。だとしたら、とりあえず自分が生きている間は保ってくれればいい。こういう抗い方が、人間の世界認識というか、ものの癖のようなところの根本にあるように思いますし、そうやって抗うことを繰り返すということを、人間は20万年ぐらいやってきたわけですね。

福岡 坂本さんは音楽で、ロゴスのレンガを積み上げていくというのとは違った、次に何がくるのか予測できない、反アルゴリズム的な作品を作られていますけれども、そうやってロゴスとピュシスの間で引き裂かれながら、ロゴスに振れ過ぎたものをピュシスに戻していく試みを続けていくことが大切なのだと思います。

坂本 そもそも、言葉で言い表せない世界があるから音楽をやっているわけですね。SのサウンドやNのノイズだけではなくM、ミュージックが必要だというのは詩的(ポエティック)であることと同じかもしれないけれども、どんな種類の芸術においても、言葉で言い表せない部分が大事なんですよね。

 

 

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「生きるというのは、一つの長い呼吸のようなものだと思うんです」坂本龍一さんが語っていた“限りある「いのち」との向き合い方”

福岡ハカセの修行時代

「生きるというのは、一つの長い呼吸のようなものだと思うんです」坂本龍一さんが語っていた“限りある「いのち」との向き合い方”_1
©NHK

 

福岡 現在、わたしが客員教授を務めるロックフェラー大学との関わりは、遡ること 30年ほど前になります。理科系では、大学に四年、大学院に五年行くともう20代後半になってしまうんですけれども、一人前になるには、その後、ポスドク(任期付きの研究員)という修業期間を経なければなりません。わたしがポスドクを始めようとしていた1980年代の終わりごろは「日本にはポスドクの制度がないので、とにかく外国に出て修業してこい」という雰囲気がありました。当時はまだメールもネットもない時代ですから、「自分を受け入れてほしい」という手紙をあちこちの海外の大学に送ったんです。そういう手紙は世界中から来るので、ほとんど捨てられてしまうのですが、たまたま、ここの大学で受け入れてくれる先生がいたので、柳行李一つでニューヨークにやって来たというわけですね。……実際には、スーツケース二つぐらいでしたけれども。

坂本 ロックフェラー大学には、どなたかお知り合いがいたんですか。

福岡 いや、全然いませんでした。たまたま空きがあったということで、運良く拾ってもらえたんですね。わたしのポスドク時代はだいたい3年ぐらいでしたが、せっかくニューヨークにいても、自由の女神にもエンパイア・ステート・ビルディングにも行かず、ただただ、ボロアパートと大学を往復する日々でした。というのは、ポスドク生活というものは、今の言葉で言うとブラック企業にいるようなもので、朝から晩まで本当にボロ雑巾のようにコキ使われるんです。特に日本人のわたしの場合は、言葉の壁も文化の壁もある中で、自分が曲りなりにも仕事ができるということを、とにかく体を張って示さないといけませんでした。そんな風にがむしゃらに日夜を問わず働いても非常に薄給でしたから、最低限の生活費を払うと何も残りませんでしたね。

坂本 福岡さんにもそういう時代があったんですね。

福岡 当時のわたしは、まだ何者にもなれない「nobody」で、精神的にも経済的にもまったく余裕はありませんでした。でも、今から思うと、自分の好きなことだけをやっていればいい、人生最良のときだったとも言えます。それから時を経て、今度は客員教授として、この大学に再訪するチャンスをいただきました。一応、昔よりも精神的にも経済的にも余裕がややあるということで、少しは、ゆっくり生物学というものを見直してみようかなという感じで過ごしています。というのは、わたしは分子生物学という、ロゴスの極みのような研究をずっとやってきたわけで、要するに、機械論的な生物学にどっぷりハマっていた人間なんです。

坂本 でもそれは基礎学力のようなもので、そこを通らないと、その先に行けないですからね。

福岡 そうそう。この前おっしゃっていたように、その山に登って、初めて、次の風景が見えるわけなので……。

坂本 まず登ってみないと、ということですよね。

福岡 わたしはそんなに大発見をしたわけではないんですけれども、細胞をすり潰したりマウスを解剖したりして、一つひとつの遺伝子に名前を付けるという地道な作業を続け、いくつかの小発見をすることができました。けれども、今から10年ぐらい前に、少し考えるところがあって、ロゴスの生物学から方向転換をしたんです。20世紀の生物学はウイルスの実態やあらゆる情報を検出できるようになったけれども、それによりあまりにも生物を情報として見過ぎたのではないか、それが今に続くわたしの問題意識になっています。

 

作ることよりも壊すことを

「生きるというのは、一つの長い呼吸のようなものだと思うんです」坂本龍一さんが語っていた“限りある「いのち」との向き合い方”_2
©NHK

 

福岡 わたしが主張する生命の「動的平衡」とは、絶え間のない合成と分解を行うことですが、そこでは合成、つまり作ることよりも分解、壊すことの方を絶えず優先しています。しかし、20世紀から21世紀にかけての生物学の大きな流れを見てみますと、21世紀はやはり作ることばかりを一生懸命見てきたわけですね。生物学者は、その細胞の中で、どうやってタンパク質が合成されるか、DNAがどうやって複製されるかといった、構築の設計的なメカニズムを研究してきました。たしかに、それらによって、作るための非常に精密な仕組みは解明できました。それは大腸菌からヒトに至るまで、たった一通りの方法で、DNAの情報がRNA(リボ核酸)に写し取られて、その情報を基にタンパク質が合成されるという、情報の流れだけで作るやり方だったわけです。ところが20世紀の終わりぐらいから今世紀にかけて、その「作る」ということばかり見る研究の潮目が変わり始めました。特に、2016年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典先生のオートファジー研究は、「生命は、作ることよりも、壊すことを一生懸命行っている」ことを明らかにした画期的なものです。オートファジーとは自食作用のことで、大隅先生のチームは酵母という微生物をモデルに使い、定常的・恒常的な細胞内分解システムとしてオートファジーが働くメカニズムを解明しました。大隅先生の研究により、生命現象は作ること以上に壊すことをやめない、どんなときでも、作ることに先回りして壊しているし、しかも、壊すやり方は何通りもあるということがわかったわけです。

坂本 DNAの中に、壊す命令を担っている設計が必ず入っていますよね。

福岡 そうなんです。だから、壊すことの重要性や積極的な意味についても、ちゃんと認識しないといけないと思います。壊すことが先行して起きるから、初めて作ることもできるんです。生命体では常に、酸化、変性が起こり、老廃物が発生しますから、これらの「ゴミ」を絶え間なく排除しなければ、新しい秩序を作ることはできません。だから、細胞は一心不乱に物質を分解しつつ、同時に再構築するという危ういバランスと流れを必要とするのです。

坂本 死ぬことによって生きる、ではないですけれども、生きるために先回りして壊すというエネルギーの流れは、まるで何かの武道の理論のようですね。人間は、寝ているとき以外は無意識に、倒れないために常に神経を使っていますが、それは、その人の意識の問題ではなくて、生命として、倒れることを極端に恐怖しているからだそうです。だから、武道で、わざと倒れることを持ち込むと、それはあり得ないことなので、相手が認識できないということが起こるという考え方があるんですね。

 

いのちとの向き合い方

坂本 生きるというのは、一つの長い呼吸のようなものだと思うんです。吸って吐く、この一つの循環。そしてその流れが止まる――すなわち、「息をひきとる」とき、その生命は死を迎えるわけです。この動的平衡には抗えないし、また逆らわないほうがいいと思っています。ただし、少しでも長く生きていたいというのも、偽らざる思いです。そのときになってみないとわかりませんが、思想や理屈でコントロールできる問題ではないと思います。
そして僕が死んだとき、僕の体は地に還って微生物などに分解され、次の世代の生物の一部となって「再生」することでしょう。この循環は、生命が誕生してから何十億年と続いてきましたし、これからも続いていくはずです。僕という生命現象は、そうした気の遠くなるような循環の一過程なのだと捉えています。

福岡 死をどのように受け止めるかによって、いかにいのちと向き合うかという生命観の根幹が問われますね。個体の死は本人にとっても、まわりの者にとっても悲しいことですが、避けがたいことでもあります。天国に行くとか生まれ変わるとか来世があるとか考える方法も一つの死生観ですが、私は死を、――ヒト以外のすべての生物がそうしているように――できるだけ自然に受け入れたいと思っています。早かれ、遅かれ、すべての生物体に寿命が来ます。それはエントロピー増大の法則に対して抗し続けてきた動的平衡が、ついには、エントロピー増大の法則に凌駕されてしまう瞬間のことですが、死は敗退ではなく、ある種の贈与です。つまりそれまで自分の生命体が占有してきた空間・時間・リソースといったニッチを誰か他の若い生物に手渡すということです。それゆえそこでまた新しい生命の動的平衡が成立します。自分の個体を構成していた分子や原子も環境の中に戻っていきます。こうして生命の時間は38億年の長きにわたって連綿と引き継がれてきたわけですね。ですから個体の死は最大の利他的行為といえます。身近な人の死を受け入れることは耐えがたいほどの苦しみを伴いますが、このような観点で見れば、自然の摂理によって迎えられた死は、悲しむべきことというよりも寿ぐべきことであり、日本語の寿命という言い方にも通じます。それから、個体の生命が有限であることが、すべての文化的、芸術的、あるいは学術的な活動のモチベーションになっていますよね。誰もがなんとか生きた証を立てたいと願います。有限であるからこそいのちは輝くのです。そしてその有限のいのちが閉じるとき、また別の生命へと動的平衡がリセットされ継承されます。このようにして生命系全体は連綿と続いてきたし、これからも続き得るのだと思います。
 

 

 

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<動画時間 13:23>