1972年1月1日 進藤隆三郎の「敗北死」 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

(進藤隆三郎は榛名ベースに殺されに来たようなものだった)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-進藤隆三郎顔写真

進藤隆三郎(享年21歳)

【死亡日】 1972年1月1日
【所属】 赤軍派
【学歴】 日仏学院
【レッテル】 ルンペン・プロレタリアート、不良
【総括理由】 金めあての闘争参加。女性関係。逃亡の意思。
【総括態度】 「縛ってくれと言えば、殴られないで済むと思ったら大間違いだ!」
【死因】 殴打による内臓破裂


(加藤能敬と小嶋和子は外に出され、立ち木に縛られた)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-木立に縛られた加藤・小嶋

※横になっているのは見張りの山田孝と岩田平治


■「山谷物語を聞いてるんじゃない!」(森恒夫)


 全体会議は72年の1月1日に入っても続いたが、正月を迎えるような雰囲気ではなかった。全員の発言がすむと、森氏は進藤氏を批判し始めた。森氏の批判は激しく攻撃的なものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 進藤は、山谷や寿町の寄場で、暴力団手配師との闘争などをしていたところ、寿町で植垣と知り合い、赤軍派のシンパとして活動を共にするようになった。M作戦(銀行強盗) を行う頃には、持原好子と一緒に生活していた。森は精神的に消耗した持原への処刑命令 を出すが、実行されずにすんでいた。


 植垣によれば、進藤は、一緒に活動しているだけで、赤軍派メンバーという意識も薄かったとのことだ。そのため、森に対するリスペクトも少なく、従順というわけではなかったようである。森はそれが気に入らなかったであろう。


 森の進藤への批判は、闘争よりもむしろM作戦(銀行強盗)のために赤軍派に参加したこと、ルンペン的であること、持原との関係で自分も処刑されるかと思ったと話していたこと、などであった。


 進藤は、つきつけられた問題を1つ1つ、重苦しい感じで答えていった。


 私は寝ることを森氏らに断って、被指導部の人たちの後ろに行き、シュラフに入ってすぐ寝てしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 このやり取りの中で、森君が、「山谷物語を聞いてるんじゃない」と言って、進藤君の話をさえぎろうとすると、進藤君が、「自分が階級闘争に関わったのは山谷だから」と言って、なおも山谷を中心とした活動を話そうとした場面があった。森君に逆らって自分の意思を押し通すなどということは、容易に出来ることではないので、これは印象深い出来事であった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「縛ってくれ」(進藤隆三郎)
 討論は未明まで続き、森は進藤に最終的にどう総括するのか問い詰めた。


 すると進藤君は自分から、「縛ってくれ。自分はその中で総括する」と言った。この言葉は、進藤君の最大限の誠意の表れだった。ところが森君は、「縛ってくれなどと言うのは甘えた態度だ。われわれの方で君を縛って総括を求める」と言って、これをけった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 森君は、われわれ指導部のものに向かって、進藤君を全員で殴打することを提起した。この時、尾崎君のときの殴打に触れ、「ひざで殴ったのはまずかったかも知れない。今度は死ぬ危険がないように手で腹を殴って気絶させよう」と言った。これは森君自ら”敗北死”のペテンを認めるものに他ならなかった。(中略:坂東に命じて縛らせる)

 それがおわると、非常に厳しい口調で、「みんなに殴られて総括を深化しろ!」と進藤君に向かって言った。(中略)
 「自分から縛ってくれと言えば、殴られないで済むと思ったら大間違いだ!」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 どれほど眠っていたかわからないが、ドタドタという足音が耳元にし私は驚いて起きた。皆は血相を変えて森氏のあとを追い、森氏と進藤氏を取り囲むところだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森がものすごい勢いで7~8発、続いて山田、坂口、吉野が、腹部を殴った。進藤は、「総括します。分かりました」と言っていたが、やがて失禁をした。


■「革命戦士になるためにこんなことが必要なのか!」(進藤隆三郎)


 しばらくすると彼は、思い余って、「何のためにこんなことするのか分からない!革命戦士になるために何でこんなことが必要なのか!待ってくれ!」と叫んだ。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 「こんなことで本当に総括といえるのか?」といわれたときには、心臓がドキドキしました。彼のいうことに答えきれる内容があるのか? そんなことを考える自分はやはり森同志のいうように甘いのかもしれないなど、自分にこだわり、自分の頭の中だけが忙しいだけでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 森は、「自分で考えろ!」と突き放した。指導部が殴り終えると、下部メンバーが進藤を殴った。吉野の証言によれば、永田が下部メンバーに殴るようにいったそうである。


 女性メンバーに殴られたとき、進藤君は首を垂れて、「有難う」と言った。すると森君は叩きつけるように、「甘えるな!」と言い、女性メンバーに代わって進藤君の腹部を数発立て続けて殴った。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「私には殴れない」(遠山美枝子)
 森は、行方と遠山にも殴るように指示した。彼らは殴れないでいたのである。


 行方氏は森氏にいわれてすぐ殴ったが、その殴り方は森氏ら男の人たちが殴ったときのような激しさはなかった。(中略)

 続いて遠山さんも殴ろうとした。しかし、殴ろうとした遠山さんは、その途中で森氏を見上げて、「私には殴れない」といった。皆は黙っていた。森氏は、「殴れ!」と強い口調でいった。遠山さんは必死の面持ちで進藤氏を数回殴った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 坂口によれば、遠山が殴れないでいると、メンバーは口々に「だらしがない」といって非難したそうである。


 そのうち、私は進藤同志の腹が赤くなっているのに気づきました。同じくらいに森同志も気がついたようでした。森同志は私を呼んで「大丈夫か?」といくらか心配そうにいい、私の方は、「わからないけど、早く気絶させるか、やめたほうがいいと思う。ミゾおちなら早く気絶するかもしれない」といったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 一体、何順しただろうか。このときの殴打もたまらなく長く感じた。終わりの方になると、進藤君の腹部は、赤色のかなりの部分が鮮やかな緑色に変色した。目も当てられぬ惨状であった。多分、内臓破裂したのだと思う。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「もうダメだ」(進藤隆三郎)
 森によれば30分ぐらいたったところで、中止の指示を出し、外の木立に縛っていくように命じた。


 私、坂東君、山田さん、吉野君等で、進藤君を支えながら、加藤君たちを縛ってある木の近くに連れて行った。この時、進藤君は、喘ぎながら、「自分で歩いていきます。大丈夫です」と言った。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 しかし、進藤は途中で力尽き、自分で歩けなくなってしまった。


 この時、私は、「進藤は芝居をしているんだ!」と彼に罵声を浴びせた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂東も、甘えていると腹をたてた、と証言している。

 そのあと指導部会議が開かれた。森は進藤への批判を再確認するように繰り返した。、


 指導部会議を続けていると、岩田氏が、小屋に駆け込んできて、「進藤が、立ち木に縛られてしばらくして、『もうダメだ』といって死んだ」と報告した。私はびっくりしてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森君は極めて冷静にこの報告を聞いた。私も冷静であった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂口によれば、報告したのは岩田でなく山田ということになっている。


■「敗北死や」(森恒夫)


 森氏は、進藤氏の報告を聞くと少し考えていたが、


「敗北死や。縛ってくれといえば縛られないと思ったことが見破られ、殴られて縛られたことから共産主義化の為に闘う気力を失ってしまったんや。だからこそ、『もうダメだ』といったあと死んだんや。『もうダメだ』という気力がある位なら、共産主義化のために努力し共産主義化を獲ちとることができたはずや」


といった。この森氏の総括に、私はたしかにそうだと思った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は本当にそう思ったのかもしれないが、「敗北死」はもちろんペテンであった。


 私自身、尾崎君の時 以上に彼の死が殴ったことに原因するのではないかということを考え、腹部を強く何度も連続して殴るとそのときはすぐに肉体的に表に出なくても致命的な痛手を与えることになるので、今後は絶対そうしないでおこうと思ったりした。

(森恒夫・「自己批判書」)


■「進藤氏は榛名ベースに殺されに来たようなものだった」(永田洋子)


 指導部会議のあと、全体会議を開いた。このときも森の求めに応じて永田が説明した。

 続いて森が進藤への批判を繰り返したが、女性が殴ったのに対し、「ありがとうございます」といったのは、女性をバカにしたものだ、という批判も行った。非指導部のメンバーも、進藤に対する怒りの空気が充満していたようだ。


 こうして、進藤隆三郎氏は、私自身でさえ、なんだかよくわからないうちに榛名ベースで1日もたたずに、暴力的総括によって「殺害」された。進藤氏の死は、腹部への激しい殴打による肝臓破裂だったのである。進藤氏は榛名ベースに殺されに来たようなものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 こうして、同志を信頼せず、同志を自分のことのように考えきれず、おくれた人間として考える私のあり方が、榛名ベースに来て一日もたたずに、殺す事態をもたらしたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 死の予感を抱きながら榛名ベースにやってきた進藤君の胸中は察するに余りある。殴打中の進藤君は、驚嘆すべき強靭な生命力を発揮し、その叫びは、総括を求めるわれわれの愚劣さと残酷さを厳しく告発していた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 同志に対する暴力への抵抗は消えていなかったが、「暴力=援助」論 に明確な反論ができない以上、幹部の指示に従わないわけにはいかない。否、むしろ指示がなくとも積極的に振舞わなくてはならない。そんな相反する気持ちの中で、自分は弟とともに最下位の兵士なので、それほど積極的に振舞わなくても大目にみられるだろうとも考えていた。そこで、同志を殴らざるを得ない場合も、強すぎもせず、弱すぎもしないように殴るという態度を取ることにした。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 進藤君の努力を認識しつつも、人間的な感情を押し殺し、共産主義化の戦いの厳しさをのみを観念的に拡大していき、その論理に安住することによって、現実や実際的な人間的感情と乖離していった。私のこうした過程が、ほかのメンバーに巨大な影響を与え、彼らの精神的荒廃をもいたらすまでになっていたのである。
(森恒夫・「自己批判書」より筆者が要約)


■出口のない「総括」と「未必の殺意」

 進藤は榛名ベースに到着したばかりで、新たに批判されるようなことはしていない。つまり、赤軍派時代の批判 がそのまま繰り返された。


 赤軍派時代は、「銃-共産主義化」論 に基づいて、銃の訓練をする程度だったのだが、森のものさしが変わってしまったため、ここでは暴力的総括にかけられたのである。ということは、森にしてみれば、進藤・遠山・行方を榛名ベースに呼んだ時点で、暴力を加えることは、規定路線だった。それゆえ、3名を榛名バースへ呼ぶことを躊躇 していたわけだ。


 革命左派メンバーにとっては、進藤への批判は何もわからなかったはずだが、積極的に関わることが共産主義化に必要なことと信じ、進藤を殴ることにためらいはなかった。このあたりは、新たに参加した赤軍派のメンバーと、はっきりとした心理的対比をなしている。


 坂東は、進藤・遠山・行方を「3人とも総括できている」といって榛名ベースにつれてきた張本人 なのに、かばう気配もなく、森の批判に同調し、進藤を殴っている。このあともそうだが、坂東は、自分の意見を主張せず、常に森の指示を冷酷に実行するのである。


 森は、坂東に「大丈夫か?」と尋ねていることから、殺意があったとは思えないが、腹を「鮮やかな緑色」(坂口)になるまで殴って、状態を確認することもなく、極寒の中、木立に縛りつけたら、死亡するのは当然である。「死んでもかまわない」という「未必の殺意」があったと考えるのが自然であろう(もちろん彼らの手記にはそんなことは書かれていないが)。


 さて、進藤の自己批判の内容はというと、植垣に押し付けられた総括をもとに、事実以上に露悪したと思われる。しかし、露悪することは、総括を認められるどころか、逆に怒りをかう結果となった。後の被総括者もたびたび露悪することになるのだが、それはことごとく失敗に終わるのである。


 黙っていれば「隠している」、反抗すれば「総括する態度ではない」、露悪すれば「反革命だ」、などと、森は出口という出口をふさいでいる。森の手記にも、どうなれば総括したことになるのか、ひとことも書かれていないので、あとから考えても出口はみあたらないのである。


 しかも、進藤への批判は、連合赤軍はおろか、赤軍派に加わる前のことであった。榛名ベースでは、あとから法律を作って裁く 「事後法」 がまかり通っていたのである。