1971年12月31日 尾崎充男の「敗北死」 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

(尾崎充男は立ったまま縛られ死んでいた)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1972-03-10 朝日 尾崎充男 顔写真

尾崎充男(享年22歳)

【死亡日】 1971年12月31日
【所属】 革命左派
【学歴】 東京水産大学
【レッテル】 日和見主義者・敗北主義者
【総括理由】 12.18闘争(上赤塚交番襲撃) を日和った
【総括態度】 「親父さん、ありがとう」「チリ紙とって」「すいとん、すいとん」の甘え発言
【死因】 殴打による衰弱、凍死


■指導部会議 「政治路線をはっきりさせるべきじゃないの?」(永田洋子)
 昨夜、永田は、尾崎の見張りをしながら、塩見孝也(獄中の赤軍派指導者)の「民民革命論の検討」を読んでいた。「我々は、毛沢東思想による社会主義革命戦争の完成こそめざさなければなりません」という塩見の主張が、反米愛国路線の止揚と同じ方向と思った永田は、うれしくなって、皆に「この政治路線は新しい反米愛国路線で、川島のは古い反米愛国路線なのよ」と話した。


 ところがこの時、私はこたつにいる森氏に呼ばれた。森氏のところに行くと、森氏は、強い口調で、「古い反米愛国路線とか新しい反米愛国路線とかいわないほうがよい」と不機嫌そうにいった。私は、驚いてしまい、「どうして新しい反米愛国路線といってはいけないの」と聞いた。森氏は、それに答えず、「ともかくまずい」としかいわなかった。


 私は、それに反対できなかったが少しふくされた気分になり皆に、「新しい反米愛国路線とか古い反米愛国路線とかいわないようにってさ」といった。皆は急に黙り、中村さんは、「いわないようにといったって・・・」といってさかんに首をかしげていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、「今の段階でも可能な限り、政治路線をはっきりさせるべきじゃないの」といったが、森は黙ってしまった。


■「すいとん、すいとん」(尾崎充男)
 指導部会議は昼食をはさんで、夕方まで続いた。政治路線を検討するために永田が中心になって話したが、森は黙ったままだった。


 夕方頃、被指導部の人たちが土間で夕食の準備をしていたが、その時、尾崎氏が、「すいとん、すいとん」というのが聞こえた。するとそれまでほとんど話さなかった森氏が、急に激した様子で尾崎氏の方へ走って行き、「そんなことをいう暇があったら総括しに集中しろ」と激しい調子でいった。(中略)


 こたつに戻ってきた森氏は、「尾崎は総括しなければならない事がわかっていないのではないか。これは尾崎がほんの少ししか殴られていないからだ。思いっきり尾崎を殴り、総括を要求する必要がある。お腹を集中的に殴って気絶させよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森、山田、坂口、吉野が尾崎を取り囲んだ。


 「総括がわかっていないのだろう!」「すいとんといったがあれはなんだ!」などとどなり、まず森氏が尾崎氏のお腹を膝蹴りで思いっきり殴り始めた。土間にいた被指導部の人たちはあ然としてみていた。私は尾崎氏の囲みのうしろから見ていた。森氏の膝蹴りはドシン、ドシンと音がした。私は目をつぶりたくなるのを絶えて見ていたが、そのときの森氏を断固としていると思った。


 森氏のあと、坂口氏、吉野氏、山田氏も次々と膝蹴りをし、さらにそれに前沢氏も加わった。突然、膝蹴りされた尾崎氏は、はじめは、「アーッ」「ウーッ」といっていたが、それ以上何もいえずに膝蹴りを受けていた。


 そのうち、森氏が膝蹴りを中止させた。森氏は、首をかしげ、「だめだ、気絶しない」といいながら、こたつに戻った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 膝蹴りを受ける度に、尾崎君は腹がへこんでくの字の状態になった。(中略)殴打は15分くらい続いている。途中、何度かうずくまろうとする尾崎君を、その都度立たせて殴ったが、やがて立てなくなったので、そのまま放置して殴打を終えた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 このとき何故蹴ったのか自分自身でもはっきりしないのですが、ひとつには尾崎のあまりの不甲斐なさに腹が立ったのと、もうひとつは赤軍派と合体したばかりだったのに、赤軍派だった山田が尾崎を殴っているのを見て腹が立ったからだと思います。つまり自分の子供が他人に叱られているのを見た親のような気持ちになっていたのだと思います。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前沢虎義上申書)


 森氏は、「あれほどやって気絶しないのは、指導部にすべてを任せる態度でなく構えているからだ」と苦々しくいい、さらに、「日和見主義を克服させることは大変なことだ。しかし、日和見主義のまま闘争させるのではなく、その前に問題にできたのだからよかった」といっていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「尾崎氏を殺害したという感じさえしなかった」(永田洋子)

 すっかり暗くなった頃、吉野氏が手洗いで外に出て行った。戻ってきた吉野氏は静かにではあったが驚いた様子で、尾崎氏が死んでいることを報告した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 夜遅くなって榛名ベースにつきました。私は小屋に入ったとたん、入り口の鴨居のところにうしろ手にロープで縛られ、立ったままつり下げられている尾崎同志をみて、ギョッとなりました。私がいなくなっている間に進行した事態の激しさに圧倒される思いにとらわれました。


 そして、そのときの尾崎同志の様子がおかしいので、それをまず、指導部会議のこたつのところにいた森同志達にいうと全員あわてていました。それで全体に知られないように、吉野同志が見に行き、死んでいることを確認しました。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 指導部全体に緊張した驚きが走った。森氏は山田氏と小声でしきりに何か話し、私たちはそれが終わるのを待っていた。 私は・・(中略)・・驚くばかりで、どうしたらよいのかわからなかった。あまりに突然のことで尾崎氏の死が実感として感じられなかったし、「殺害」したという感じさえしなかった。


 ただひたすら私はしっかりしなければならない、こんなことで動揺してはならないと思っていた。だから、森氏が山田氏とのみ話していることに別に何とも思わなかった。むしろ、しっかりと話合ってほしいと期待していた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 私は、呆然として頭の中が真っ白になった。やがて動悸が始まり、大変なことをしてしまったと思った。他の指導メンバーもみな驚愕して、数分間、声も出ない有り様となった。私は、どうしたらよいか分からず、自分のイニシアチブでこの重大な事態を収拾しなければなどとは思いもよらなかった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 尾崎死亡と坂東たちの到着の順序については、それぞれの手記で、以下のような食い違いがあるので、証言の整合性が合わない部分がある。


(永田)夕方、吉野が尾崎の死に気づく → しばらくして坂東が到着
(坂口)夕方、坂東が到着 → 吉野が尾崎の死に気づく
(坂東)夜遅く、坂東が到着 → 坂東が尾崎の死に気づく→ 吉野が死亡を確認
(森)午後、坂東が到着 → 夜、全体会議の最中に尾崎の死亡が報告された


■「尾崎は敗北死した」(森恒夫)
 森と山田は数分間のヒソヒソ話を終えた。


 それ(ヒソヒソ話)が終わると、われわれ指導メンバーに向かって、次のように言った。
「尾崎の死は、共産主義化の戦いの高次な矛盾、総括できなかった敗北死であり、政治的死である。共産主義化しようとしなかったために、精神が敗北し、肉体的な敗北へと繋がっていったのだ。本気で革命戦士になろうとすれば死ぬはずがない。革命戦士の敗北は死を意味している」と言った。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 「敗北死」 は、責任逃れ、すなわち死の責任を尾崎に転嫁するものだったが、動揺するメンバーに救いの手を差し伸べた。ほっとした様子が手記からもうかがえる。


 皆は、「そうだ、そうだ」といい、それまでのピーンと張り詰めた緊張感が急にとけた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 私は、このペテンに乗っかって責任逃れをした。つまり共犯者に成り下がったのである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 森の手記を読めば、「敗北死」がでっちあげだったことがわかる。「自己批判書」において、「殴ったことによって尾崎が死んだと思った」と告白している。


 我々はすぐに彼がうずくまったまま体にロープが絡みついたような状態ですでに硬直し死んでいるのを確認したが、その場では全員にそのことを云わなかった。何故なら、私は昼間彼を殴ったことによって彼が死んだのではないかと思ったし、いったいこの彼の死をどのように総括すべきなのか分からなかったからであり、あまりに重大な問題であると考えたからである。
(森恒夫・「自己批判書」)


■尾崎を死に至らしめたものは何か?
 尾崎への「総括」は苛酷を極めた。28日の夜に正座をしてから、31日暗くなるまで、寝ることはおろか、座ることさえ許されなかった。ふりかえってみると、、、


12月28日
 夜、正座をさせられる。


12月29日
 昼食後までずっと正座し続ける。
 坂口と決闘をさせられ、一方的に殴られつづけた結果、森に一旦は認められる。
 「親父さん、ありがとう」と言ったことに対し永田が「甘えるな!」と非難。
 「ちり紙とって」をきっかけに立ったまま総括させられる。
 「休ませてください」と懇願するが無視される。
 夜中じゅう吉野が見張りにつき、立たされ続ける。


12月30日
 朝、殴られ、鴨居に立ったまま縛られる。
 夜中、見張りの永田に何かを訴えるが無視され、立たされ続ける。


12月31日
 夕方、「すいとん、すいとん」をきっかけに、指導部による膝蹴りの暴行。
 暗くなってから死亡が確認され、「敗北死」とされる。


 メンバーの中で、誰ひとり、とめる者や尾崎の健康状態を心配する者がいなかったのは、尾崎を革命戦士の不適格者と差別的にみなしていたからであろう。いや、正確にいえば、自分とは違う「不適格者」であってほしかった。


 考えてみると、「日和見主義の克服」というたてまえがあったのは、坂口と決闘をさせられたところまでで、あとは、「ちり紙とって」「休ませてください」「すいとん、すいとん」という尾崎の発した言葉が、「総括する態度ではない」とされ、より苛酷な肉体的苦痛を与られた。


 この経過を見る限り、尾崎を死に至らしめたのは、「総括する態度」の問題であって、「日和見主義の克服」の問題ではない。


 尾崎の死を確認したときの永田と坂口の証言は注目である。2人とも、この時点で、森に頼ることしかできなくなっていて、森の言葉を待つしかなかった。そして、森は期待どおり、「敗北死」の理論を提示し、自らを免罪するとともに、共犯関係にあるメンバーを救ったのである。


12月31日の話はまだ続く。