1971年10月27日 新倉ベースの設定(赤軍派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 赤軍派が山岳ベースを設けることになった理由は、ひとつは革命左派に影響されたことであり、もうひとつは、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と接触した際、「軍事訓練センター」の話に共感したことだった。PFLPとの接触の後、森は山岳ベースの設定を命令した。


■1971年10月27日 山田孝と植垣康博が山岳ベースを調査
 10月27日、植垣康博と山田孝(山岳ベースで死亡)は山岳ベース調査に出発した。山田は大菩薩峠事件 に関連して逮捕され、再び活動を始めていた。

 山田氏は、一平卒からやるという彼の希望で、すでに私たちと一緒に交番調査を行ったりして軍の活動に参加していた。しかし、山田氏は塩見氏の秘書をしていたりしていた最高幹部の一人だったので、私たちとしてはやりにくく、山田氏と一緒に行けといわれたときには、正直なところいい迷惑であった。(中略)

 夕食後、山田氏が身延山で買ったウイスキーを飲みながら話をしたが、酒を飲みながら話すというのは森氏や坂東氏にはとても望めないことなので、私はたちまち山田氏に親近感を持った。


 それで、私は、これまで消耗してしまった最大の問題である森氏への部隊介入に対する私の不満を、切実な気持ちで述べたが、山田氏は何も言わず、「お前には期待しているよ」としかいわなかった。


 そのあと、獄中でのことなどを話したりしたが、山田氏は、私に子供の写真を見せてくれ、子供をとても愛しているようだった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■1971年10月30日 新倉(あらくら)ベースの設定

 植垣と山田は10月30日に、たまたま伐採小屋から帰っていく労働者たちと出会い、自分たちの小屋を使っていいといわれる。

 作業員の人たちは気のいい人たちで、一服しながら雑談しているうちに「この奥に伐採小屋があるからおまえら、そこを使ったらいい。来年の春までは使わないから」と教えてくれました。僕たちのことを赤軍派とは思わずに、「登山好きの学生さん」と思ってくれたのでしょうね(笑)。

 詰め込めば50人くらい入れそうな広さでしたね。台所も突いていて、便所がはなれになっていて、さらにうれしいことには、米、小麦粉、缶詰、乾物類といった食料はあるし、焼酎はあるし、おまけにたばこまで置いてありました。ヤッターという感じでした。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」植垣康博ヒアリング)


■1971年11月11日 坂東国男、植垣康博、進藤隆三郎が新倉ベースへ
 植垣と山田はいったん東京に戻って報告をしたところ、革命左派との共同軍事訓練の話を聞かされ、「すぐ山へ移れ」と命令が下り、坂東、植垣、進藤(山岳ベースで死亡)の3人が11月11日にまた新倉ベースに出かけた。そして、到着したのは13日だった。なにしろ小屋は標高1800メートルの地点だった。

 僕たちは、蒔割りをし、小屋から尾根への道を作る作業に精を出しました。それから、もうひとつの小屋まで電話線を引いて2つの小屋が電話連絡を取れるようにしました。南アルプスの眺めはすばらしいし、酒はしこたまあるし、何よりも、政治局員の森さんがいないので充実した毎日でした。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」植垣康博ヒアリング)

■1971年11月22日 森恒夫、山田孝、山崎順が合流
 11月22日に森、山田(山岳ベースで死亡)、山崎(山岳ベースで死亡)が新倉ベースに合流した。

 森さんにも、山に入ったからには平等に作業を分担しようと提案し了承を得たのですが、森さんは食事当番になっても「寒い」とか「水が冷たい」とか言って、やろうとしませんでした。僕たちが道路づくりをやっていると、「そんなことより軍事訓練をやろう」と言い出して、格闘技の真似事や射撃の構え方の練習を勝手に始めてしまいました。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」植垣康博ヒアリング)

 植垣によると、森は、山崎を布団蒸しにして天井からつるしてサンドバッグにしたり、進藤に対して蔑視的に接したり、ずいぶん横柄な態度だったようだ。ただし、まだこの時点では、森に対し、山崎は怒ったし、進藤も反論することができた。


■1971年12月1日 青砥幹夫、行方正時、遠山美枝子が合流
 12月1日に青砥、行方(山岳ベースで死亡)、遠山(山岳ベースで死亡)が山田の案内で新倉ベースに到着した。遠山は1970年6月に逮捕された獄中幹部の高原浩之 の妻であった。

 軍に入った女性同志が遠山さんであることにいささかがっかりした。一体軍なんかに入ってやっていけるのだろうか、かえって足手まといになるのではないかと思い、不安を感じた。というのは、赤軍派では、幹部の夫人は特別扱いされており、彼女たちを組織の活動に従わせたり、批判したりすることは、はばかられる雰囲気があったからである。彼女が登山でなく、スキーに行くような服装だったことも気になった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 共同軍事訓練の際、革命左派のメンバーも、遠山に関して、このときの植垣と全く同じ印象を抱いている。そして「遠山批判」といわれる厳しい追求を行うことになる。


 遠山は、救援活動や「赤軍‐PFLP 世界戦争宣言」の上映会など、主に側面支援を行っていて、これまで軍事活動はしていなかった。ではなぜ、遠山が山に入ったのか、という疑問がわく。


 この頃、「それぞれ9人のメンバーを選抜して新倉で合同軍事訓練を行う」ことが、森と永田の間で取り決められていた。そのための「人数あわせ」という説が有力だ。このころ、関西の赤軍派メンバーと森が対立したこともあって、森は集められるメンバーがそんなにいなかったのである。

 私(大泉)は、この「9名ずつ」という取り決めが、メンバーが多く残っていた革命左派には何の問題もないことだったが、200人以上の逮捕者を出し、実態としては坂東隊しか軍の残存メンバーがいなかった「森赤軍」には、かなり負担になっていたような気がしてならない。

 京都にいた遠山美枝子は、「森赤軍」と距離を置いていた関西の赤軍派メンバーに「山がどうなっているか調べに行く」という言葉を残して新倉ベースに出かけている。(中略)


 穿った見方をすると、約束の9名を集められそうになくなった森恒夫は、獄中幹部、T政治局員の夫人である遠山美枝子に、「とにかく一度、軍の様子を見に来てください」という言葉で入山させ数合わせをしたのではないか、という疑いが出てくる。


 そして、救援対策活動を遠山と一緒に担っていた行方正時が、護衛役としてついてきたのではないか、と。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」)


 上記の「あさま山荘銃撃戦の深層」の著者である大泉康雄氏は、吉野雅邦の親友で、当時雑誌の編集長をしていた。「あさま山荘銃撃戦の深層」には、関係者の証言、吉野の手紙など貴重な資料が多数掲載されている。吉野は手記を発表していないが、この著書で吉野の考えを知ることができる。


 最後には遠山さんや僕(青砥)のような「つなぎ役」までも山に入ってしまった。その結果、合法部隊・支援部隊との連絡を一切絶ってしまったということになる。
(荒岱介・「破天荒な人々」青砥幹夫インタビュー)


 こうして森は共同軍事訓練のために9名を新倉ベースに結集させた。そして、この9名が連合赤軍のメンバーになるのである。