1971年11月21日 是政アジトで加藤能敬・中村愛子逮捕(革命左派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■1971年11月22日 特別手配の川島陽子逮捕(朝日)
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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-11-22 朝日 川島、加藤、中村逮捕


 ゴーズマイト所持容疑で指名手配されていた川島陽子が逮捕された。彼女は獄中のリーダー・川島豪の夫人である。永田は川島豪にレイプされた経験があるが、その後川島豪に、陽子夫人と離婚し自分と結婚することを要求している。そして川島陽子を名古屋へ追いやったといわれている。


 川島陽子は永田との関係でつらい思いをしたが、名古屋で心機一転、中京安保共闘を立ち上げ、メンバーをオルグした。そして中京安保共闘のメンバーが連合赤軍に合流することになる。


 記事の最後に、川島の調べから府中市の是政アジトが浮かび、加藤能敬、中村愛子が逮捕されたとある。アジトから銃弾がでてきたため、そこにいたメンバーが逮捕されてしまった。この中には小嶋和子の妹もいた。


 これが後の粛清につながる重要な出来事だった。加藤能敬(加藤3兄弟の長兄)は逮捕されるときメモを飲み込むのが精一杯だったが、後に森から、警官に抵抗しなかったことを厳しく追求されるのである。


 大槻節子はちょうどそのときアジトに入ろうとして逮捕されそうになったが、中村愛子が「関係ない人まで逮捕するな」といったので、その場を離れることができた。金子みちよはアジトに戻るのが夜遅かったので助かった。彼らはアジトを作るために上京していたのである。


 大槻と金子が逮捕をまぬがれたのは偶然にすぎなかったが、永田は「夜遅くまでよく活動していたからだ」と評価した。


■1971年11月22日 爆弾工場を摘発 京浜安保共闘を手入れ(朝日夕刊)
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 是政アジトに残されていたメモから、横浜市内のアジトが摘発され、爆弾製造の時限装置や薬品が押収された。この記事ではおおげさに爆弾工場と断定しているが、24日の続報では、「横浜アジトでは強力な爆弾は作れない」と訂正された。


■1971年11月23日 榛名ベースへの移動
 この頃、井川ベースから牛首ベースに移っていたが、山の管理人らしき人に見つかったため、再び井川ベースに戻っていた。逮捕者がでたので、すぐに、候補地であった榛名山に移ることにした。


 私たちは、すぐに榛名山に移動することになった。永田は兄が逮捕されたことで私が動揺しているのではないかと心配したらしく、私に、「大丈夫か」と尋ねたりした。逮捕者の中には岩田の恋人もいたので、永田は岩田にも「大丈夫」「心配しないで」と声をかけていた。

 永田には、こうした友人とか、兄弟、夫婦、恋人といった個人的な関係に過度に干渉してくる傾向にあった。好意的に解釈すれば、思いやりのあるいい人だということになるが、私にはこうした永田の態度が思いやりから出ているものというより組織の活動とは必ずしもつながりのない人間関係を利用して、メンバーを組織に引き止める手段に使おうとする気持ちの反映のように見えた。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 榛名山に向かったのは、永田洋子、坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、前澤虎義、金子みちよ、大槻節子、杉崎ミサ子、岩田平治、尾崎充男、伊藤和子、寺林真喜江、加藤倫教、加藤元久、小嶋和子の15名であった。榛名山は連合赤軍粛清の舞台となる山岳ベースである。


 榛名山での小屋作りの最中、永田洋子~岩田平治までの9名が共同軍事訓練のため、赤軍派の新倉ベースへ向かった。そして、そこで起こったことが、12名殺害のきっかけとなるのである。