1971年10月24日 瀬木政児・松本志信の脱走、逮捕(革命左派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■1971年10月24日 瀬木政児・松本志信の逮捕(朝日)

(クリックすると読めます)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)


 永田と坂口は丹沢ベースに向かう電車の中で新聞を読んで、瀬木と松本の逮捕を知った。


 彼らは逮捕されたことよりも、軍の中心メンバーが脱走したことに大きなショックを受けた。瀬木は早岐・向山の殺害に関わってから消耗し、脱走を試みて、坂口に連れ戻されたこともあったが、その後は思いとどまったものと思い込んでいたのである。


 今回の脱走は、恋人の松本と示し合わせて山を降り、名古屋の姉の家に向かったが、そこで逮捕されてしまったのだった。


 瀬木の逮捕で、会津若松の殲滅線計画を中止し、急いで丹沢ベースを引き払い、大井川上流の井川へ移動することになった。永田たちが戻ると、金子みちよが指揮をとっていた。


 私は、すぐ本やノートの整理にとりかかった。(中略)瀬木氏のノートも出てきた。急いでそのノートを調べると、ノートの最後に瀬木氏の字で、
「本当にすみません。しかし、どうしても一時組織から離れてみたかったのです。でも、必ず闘い続けるからこの後のことをみていて下さい」というようなことが書いてあった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 しかし、井川に着いてみると、ダム工事の飯場が残っていて人の出入りがありそうだったので、急遽、牛首峠の方に仮住まいすることに変更した。


 牛首峠にいるときのことで覚えているのは、永田の発案で腕相撲大会をやったことです。男では僕が優勝し、女性では大槻さんが優勝しました。永田が「優勝者同士で決勝をしたら」と提案したので、大槻さんと腕相撲をしましたが、甘く見ていい加減にやっていたら、大槻さんにエイッと手首を入れられてあっという間に負けてしまいました。大槻は小柄でしたが高校時代に体操部に所属していたそうで、だから筋力も強かったのだと思います。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」『前澤虎義ヒアリング』)

 2人の脱走はすぐ森に伝えられた。


 森氏は「そうか」といったが、しばらくすると改まった口調で、私の思ってもみなかったことを言った。「瀬木が逮捕されたのだから、2名の処刑(向山氏、早岐さんの処刑)のことが出るだろう。どうするんや」
 私は少し驚いたが、坂口氏らとに名も話し合っていなかったので何もいえなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 S.Mは丹沢ベースを脱出し、その2日後に名古屋の姉宅に立ち寄ったところを逮捕された。もともとは料理店の板前をしていた男で、真岡猟銃強奪事件、印旛沼処刑事件の実行役として中心を担っていた、革命左派の中でも軍人としての実績を積んだ人物で、そうした「軍人として鍛えられているはずの人間」の逃亡は、永田、坂口の、メンバーに対する「猜疑心」を深めさせる結果をもたらせた。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」『前澤虎義ヒアリング』)

瀬木の関わった事件は下記を参照。

1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その1(革命左派)

1971年8月3日 印旛沼事件 その1・早岐やす子殺害(革命左派)


 瀬木は脱走したら処刑されると知っていたから、悩み抜いた末の行動だったはずだ。爆弾作りにきた植垣も瀬木の消耗に気づいていた。それなのに指導部は強引に引きとめただけで、その後の瀬木の様子を観察していないのである。沈黙した瀬木を「思いとどまった」と思い込んでいた。


 さらに、森に指摘されるまで、2名の処刑を自白してしまう可能性を考えてもいなかった。予想し得る事態にあらかじめ備えるのは指導部の重要な役目だが、それができないほど、余裕を失っていたのだろうか。


■小嶋和子の動揺

 消耗していた小嶋は、瀬木の逮捕を知って、さらにショックを受けた。


 11月4日頃、小嶋さんは真っ青な顔をしてフラフラし、身はここにあっても心はここにないという様子だった。事情を聞くと、寺岡氏が、「小嶋さんは瀬木の脱走に大きなショックを受け、瀬木が使っていたマフラーをしてみたり、瀬木に一緒に逃げてくれといわれれば自分もそうしたといったりした。しかし、自分は頑張っていくと表明しているので一応安心している」といった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 11月18日、小嶋さんは、急に暗い沈んだ様子をし、いきなり挑戦的な口調で、「私はね、逃げることを考えている。私には行動力があるから、ヒッチハイクでも何でもして帰ろうと思えばいつでも家に帰れる。帰って自分の運転で家業を手伝い、兄さんを助けたいと思っている」と言い出した。私はびっくりしてしまった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 こうした小嶋の動揺に坂口は、キーッとした顔で「夢中になって洗濯しろ」と命じ、ものすごい勢いで洗濯をさせた。永田はこのシゴキ的な洗濯の強要を「暴力的総括要求の萌芽」と分析しているが、それほど関係あるとは思えない。


■「あれは正しかったと先に機関誌に出すべきだ」


 森氏は「あれ(早岐・向山の処刑)は正しかったと先に機関誌に出すべきだ」といった。私は少し考えたあと、「出さない」と答えた。森氏は「正しかったのだから、正しかったと出すべきだ」と繰り返したが、私が黙っているとそれ以上はいわなかった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 上記は、注意深く読まないと流してしまいそうな箇所だが、この意見の相違に森と永田の指導のやり方の違いが現れている。


 メンバーが動揺したとき、「そんなこといわないで建党健軍を前進させよう」とか「闘争をやる中で解決していこうよ」などといって、メンバーに再度決意表明させることによって一件落着とするのが永田のやり方だった。


 だが、永田のやり方では、瀬木や小嶋の例でわかるように、すべての加害者を救済するには限界があった。そういう意味では、革命左派においては、この時点で処刑に歯止めがかかっていたのである。


 連合赤軍においては、加害行為を森がその都度創出したイデオロギーで正当化し、加害者を救済していった。それが12名の同志殺害という、歯止めのかからない悲惨な事態を招いてしまうのである。