1971年8月 「統一赤軍」から「連合赤軍」へ |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■1971年8月7日 赤軍に統一 赤軍派と京浜安保共闘

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-08-07 統一赤軍


 久しぶりの新聞記事は、広島の反戦集会で、赤軍派と革命左派の統一のビラが配られたというもの。赤軍派と革命左派の統一をアピールすることによって、他のグループの結集を促すという狙いがあった。


■1971年8月18日 川島豪が「統一赤軍」に反対、「連合赤軍」に名称変更
 獄中の川島豪は手紙で、統一赤軍結成は反米愛国路線の放棄と断じ、脱党するとまで言って反対してきた。ただし、名称を「連合赤軍」に変更すればよいとも書いてあった。


 永田たちは川島の手紙の解釈にとまどった。もともと川島が赤軍派との共闘を持ち出したのだし、名称を変えればよいというのも理解に苦しんだ。しかたなく森に川島の手紙をそのまま見せ、「連合赤軍」への名称変更を申し入れた。


 森氏は、川島氏の手紙をひととおり見てから、「わかった」といって、赤軍の名称を連合赤軍に変更することを了解してくれた。しかし、同時に、「何だ、この手紙は!指導者の手紙ではない!」といって、川島氏の手紙を批判した。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派の提唱する「反米愛国路線」とは、まるで右翼みたいだ。永田によれば「アメリカの軍事基地の存在などによって、日本をアメリカの従属国と規定し、日本のアメリカからの独立を当面の任務とした政治路線」のことだという・・・・・やはり右翼みたいだが(笑)、革命左派はその路線上で米軍基地爆破闘争などを行ってきた。


 一方、赤軍派は「世界革命」を標榜しており、国際主義で一国主義的な考え方ではない。「過渡期世界論」「国際根拠地論」「前段階武装蜂起」など、ロマンチックでスケールの大きな主張をしていた。


 政治路線の違う両者を統合するのは無理があったが、両派とも違いを認識しており、当面それは棚上げして、さしあたり殲滅戦を共闘する目的で軍事的協力関係を築いたのである。


 この会合で、森は、山田孝(山岳ベースで死亡)、遠山美枝子(山岳ベースで死亡)を入軍させるきっかけを話している。


「彼(山田)は、以前、塩見の秘書をしていた。M闘争後、活動を再開したいという手紙をよこした。それで、しばらくは革命戦線で活動してもらうことにしたが、ゆくゆくは指導部に入ってもらい、僕の片腕になってもらうつもりや」

「(遠山を)組織部に入れるといったら、彼女はなぜ私を軍に入れないのといった。すごいだろう。僕も驚いた」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


また、森は夕食後、金子みちよ、大槻節子、杉崎ミサ子、松本志信ら、革命左派の女性たちとなごやかに話をした。


 妊娠している金子さんが山岳で子供を生むということが話題になった。森氏が、これにたいして目を丸くして、「ムチャだ。大体予防接種なんかどうするんや。こんなところで育てられるはずがない」と言った。(中略)

 革命左派の女性たちは、森氏の発言にワイワイと反論し、山岳ベースでも子供を育てられるようにしてゆくのだ、そのために協力すべきであり、足を引っ張るべきではないと主張した。森氏はあくまでも「ムチャだ」といっていたが、「金子さん用に肝油を手に入れよう」といいだした。これに革命左派の女性たちは「ウァー」と歓声をあげた。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 翌19日の朝、銃を移すために大きなリュックがいくつも用意されていた。革命左派の女性の誰かが、「男の人は全員、ふもとまでリュックを運んでください」と指示し、赤軍派の森と行方もリュックを運ばされた。


 しばらくすると森氏らが戻ってきた。森氏は一仕事したあとのようにせいせいした顔をし、「女の人からリュックを運んでくれと指示されるとは思わなかった。あのように当然のように指示されると、はいといって従わざるを得ない。しかしこんなことはじめてだ。革命左派の女性はすごいな」といっていた。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 行方正時(山岳ベースで死亡)も森に同行していたが、革命左派の女性たちと打ち解け、「こういうところで2~3週間のんびりしたい」といっていた。ただ、行方は森に、過去の闘争や女性問題について「総括しろ」とにらまれていた。


 このとき永田は、森のいう「総括」とはどういうことか、わらなかったという。


■1971-08-23 朝日 朝03 [革左] 新宿で雪野健作逮捕

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-08-23 雪野健作逮捕(革命左派)


 雪野は真岡銃砲店襲撃の実行メンバーの1人であり、札幌潜伏まで、永田や坂口と行動をともにしていた。


1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その1(革命左派)


 雪野氏がなぜそのような危険な場所にいたのかという声が出たが、私は、新宿の周辺に雪野氏が接触していた黒ヘルグループの人のアジトがあるのを知っていたので、新宿にいてもやむを得なかったと思った。実際、雪野氏は喫茶店で黒ヘルの人と会っているところを一緒に逮捕された。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 雪野は永田の人格について、以下のように分析している。



 (永田は)一度思い込むと、まっしぐらに突き進み、「ああそうか」と容易に人の影響を受ける。同時に、永田には人の心の動きを鋭く直感的に捉える能力があり、また、人の心の内にすっと抵抗なく入り込む不思議な力を持っていた。

(「情況2008年6月号」 雪野健作・「永田指導部の形成過程」)