1971年8月 処刑の回避と交番襲撃失敗(赤軍派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■1971年8月中旬 持原好子の処刑を回避
 革命左派が早岐やす子、向山茂徳を処刑したのとほぼ同時期、坂東隊は持原好子の存在を持て余していた。持原は左翼運動とは全く縁のない芸者で、進藤隆三郎と恋仲だったため、坂東隊と一緒に行動するようになったにすぎない。彼女はストレスからたびたび「警察へ行く!」などと騒ぎ出すので手こずっていた。

 森は「処刑しろ」と秘書役の青砥を通じて指示を出した。坂東と植垣は気が進まず、進藤に彼女を連れ出させ、部隊からはずして連絡を絶つことにした。青砥も処刑する気がせず、彼女を説得して部隊からはずすことですませてしまった。


(森に)「あの娘は帰した。処刑はちょっとできない」と報告した。森も「そうか、それでいいよ」といった。森は「(処刑は)ちょっと俺たちの方法とは違うな」と言ったこともあったんですよ。森の心も揺れ動いていたんだ。赤軍派は組織規律として処刑を考えたことはなかったから。
(荒岱介・「破天荒な人々」青砥幹夫インタビュー)

■1971年8月30日 白河交番襲撃失敗
 森から坂東隊に白河方面の交番に殲滅線を仕掛けるように指示が下されるが、反対の大合唱であった。なぜなら坂東隊は、これまで都市部での殲滅線を想定してM作戦を自主的に実行してきたからである。坂東隊にとって、警戒の甘い地方交番を襲撃するのは後退でしかなかった。森との板ばさみになって苦しい立場の坂東は「とにかく調査してみよう」とみなを説得した。


 8月22日に突然、森と青砥が坂東隊の山小屋に現れ、革命左派の2人の処刑について話し、「お前らにはそういう殲滅戦をやりぬく厳しさがない」と批判した。また、青砥は植垣に、「懲罰中なのにタバコをすってもいいのか?」とたしなめた。植垣は横浜銀行妙蓮寺支店を襲撃した事件のとき、銃の弾を忘れた件で2ヶ月間の懲罰になっていたのである。


1971年6月24日 坂東隊・横浜銀行襲撃(赤軍派)


 青砥氏が帰ったあと、私は、坂東氏に、「俺は懲罰中なのか」と聞いた。坂東氏は、「ほんとは妙連寺の件で2ヶ月の懲罰になったんや。しかし、また懲罰ではかわいそうで、俺の方からは言い出せなかったんや。守らなくてもいいよ」と答えてくれたが、青砥氏からいわれたときのイヤな気持ちは少しも晴れなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 ところがいざ襲撃実行当日、交番はもぬけの殻だった。帰り道で坂東が車の運転の練習をするが、湖畔の急斜面に車を落とすというオマケまでつけてしまった。森は再度実行することを要求したが、やる気を失った坂東隊は、森に殲滅戦の中止を要求し、代わりに東京で殲滅戦をやるといって、なんとか森の了解を取り付けた。


■森は死者がほしかった?

 結局は、森さんにも僕にも、12・18で柴野春彦さんが殺されたことの呪縛があったのです。上赤塚の教訓から、警官を殺害しないことには銃は奪えない、という。でも森さんが殲滅戦を急がせたのは、もうひとつ裏の理由がありました。

 そもそもは永田さんたち革命左派との間で、『殲滅線は共同で行う』という約束が交わされていたんです。ところが森さんは、9月14日の革命左派との合同会議を前に、抜け駆けで殲滅線をやりたいと考えました。それは、殲滅戦をやりとげたという実績を作っておくことで『赤軍派は断然強い』と思わせて、革命左派に対して優位に立とうという意図があったからです。


 それと、これはきわめて重要なことなのですが、森さんには、処刑をしなかったことが、永田さんに対する政治的負い目として残っていました。森は、死者がほしかったのです。

(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」 植垣康博ヒアリング)


 「12・18の呪縛」「上赤塚の教訓」とは、警官を殺す覚悟と武器を持たないため柴野が殺された、ということだと思われる。


1970年12月18日 上赤塚交番襲撃事件(革命左派)


 こうしてみると、森が直接関わった作戦は失敗ばかりである。結局、処刑もできず、交番襲撃も失敗に終わり、永田に対する負い目は解消できなかった。


 ところで交番襲撃失敗の日、森はコーヒーを飲みながら、「俺と坂東は硬派、植垣は硬派の軟派、山崎はドイツ帰りの遊び人、進藤は不良」と人物評定を行った。この時点ではまだ雑談に過ぎなかった。しかし、後の山岳ベースの「共産主義化」のもとでは、この人物評定がそのまま総括要求され、進藤と山崎を死にいたらしめるのである。