1971年4月~6月 革命左派が小袖ベースへ結集(革命左派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 革命左派は、真岡銃砲店襲撃事件のあと、深く潜行したため、その後の新聞記事が全くない。しかし、赤軍派がM作戦を実行している間、連合赤軍事件につながる重要な出来事がいろいろあった。そこで、彼らの著書から時系列にまとめておく。


深く潜行するきっかけとなった真岡銃砲店襲撃事件については以下を参照。


1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その1(革命左派)
1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その2(革命左派) 永田・坂口指名手配
1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その3(革命左派) 逃避行

■1971年4月 永田と坂口が上京

 真岡銃砲店襲撃事件のメンバーは、札幌に潜伏していたが、4月20日に永田と坂口が上京し、4月23日に森と会う。永田は中国行きを提案するが、森は国内健軍武装闘争を表明する。


 5月中旬まで、赤軍派のアジトや、知人のアパートを点々とする生活を余儀なくされたが、都会では手配写真がそこらじゅうに貼ってあるので、すいぶんと苦労したようである。

 

 永田さんと一緒にタクシーでアジトに向かう途中、運転手が「道がわからないから、ちょっと交番で聞いてきてくれ」と言ったのである。エッと思ったが、断るわけにもいかず、意を決して交番に駆け込んだ。急いでいると思った交番の警察官は、私の顔を見ることもなく、道を教えてくれた。交番の掲示板に貼られていた手配写真を目の角(すみ)で確かめながら、私はほっとした。


 私と永田さんは身長差が大きいので歩行が揃わず、また2人の判断がよく食い違ったため、衝突を起こし、永田さんが交番のそばに立ち止まって歩こうとしない、などということが一度ならずあって、私は疲れてしまった。宿を借りるときの彼女の押しの強さも相当なもので、私は宿を貸してくれた人への申し訳なさから、身の細る思いがした。


 こうしてあちこちに迷惑をかけながら、都内には1ヶ月ほどいた。もうこれ以上、迷惑をかけられないと思った私は、ある所で永田さんに、「山岳にベースを設けてみたらどうか」と言った。
(坂口弘・「あさま山荘1972(上)」)


 中国行きを主張していた永田は、山岳ベースに同意し、これで中国行きは棚上げになった。


 山に入る直前、森恒夫からの要請で会合を持ったが、森は用件をきりだそうとしなかった。そこで永田のほうから、森に30万円のカンパを要請、逆に森は銃2丁を要請した。


 5月中旬、永田と坂口は、札幌に残っていた寺岡恒一(山岳ベースで死刑)をよび、雲取山の入り口で会う。


 ここで寺岡は、永田の「銃を軸とした闘い」の方針を批判し、「150名の前段階武装蜂起」を主張する。また、そのとき、組織の改組案を出す。改組案の内容は、寺岡を委員長とし、永田を機関誌の編集だけに格下げするものだった。


 この一件は、寺岡が「僕が誤っていた」と提案を引っ込め、永田支持に回る。永田は「寺岡氏はその後も私に積極的に協力し、困難な任務を担ってくれた」と回想している。にもかかわらず、後の山岳ベースで寺岡は糾弾され「死刑」になる原因となってしまう。


 永田はこの期間中、森にアジトの世話をかけた上、かなり話し込んだこともあり、森と急速に親密さを増していった。おかしな関西弁を使うようになったようだ。


■1971年5月 小袖ベースへ集結
 5月下旬、山梨県の小袖のバンガローの廃屋にベースを設定した永田たちは、ここへ合法部メンバーも含めて次々とメンバーを集結させた。また、北海道に隠していた銃も運び込んだ。革命左派は山に入ることによって潜伏生活から開放され、ひさしぶりに大声で話し、笑うことができた。


 多くのメンバーが集まり、わいわいがやがやと討論したが、男女関係にまつわる問題も多かった。「結婚の意志がないまま、異性と性関係を結ぶことを自由と考えることなど全く考えられなかった」永田は、メンバーの奔放さに驚くばかりだった。そのため、トンチンカンな忠告をすることが多く、大槻節子(山岳ベースで死亡)に「永田さんは恋愛を知らない人」とまで言われた。


 食生活はサバの缶詰の雑炊や山菜など粗末なもので、1つの菓子袋をみなで分け合ったりしていたが、それもまた楽しかったようだ。夫婦小屋を作る計画もあり、山で子供を育てていくつもりだった。メンバーは希望に満ち溢れていた。


 こうした様子からわかるように、革命左派が合法メンバーも呼び寄せたのは、山岳ベースを「生活の場」(根拠地)と考えていたからである。一方、赤軍派も11月に山に入ることになるが、赤軍派はあくまで「訓練の場」(キャンプ)と考えていた。つまり、訓練が終われば、アジトに戻るつもりだった。


 この両者のスタンスの違いは決定的で、後の共同軍事訓練において、おそらくキャンプのつもりで参加した赤軍派の遠山美枝子(山岳ベースで死亡)は革命左派の女性たちから、指輪や化粧のことで批判され、「総括」のきっかけになるのである。


■1971年6月 拡大党大会、向山の脱走と早岐の脱走未遂
 6月5日、向山茂徳(後に処刑)が「山を降りたい」といいだす。理由は「僕はテロリストとしては闘えても、党建設のためのゲリラ闘争を持久的に闘うことはできない。小説も書きたいし、大学にも行きたい」ということだった。永田たちは説得するが、結局、翌日に脱走してしまう。向山は大槻節子(山岳ベースで死亡)の恋人であった。


 6月6日、向山の脱走後、しばらくして、今度は早岐やす子(後に処刑)が「山を降りたい」といいだす。理由は「彼に会いたい」からだという。永田は「同じ路線で闘ってる者同士の結婚が一番いいのよ。そうなるように頑張りなさい」と強引に説得し、早岐を沈黙させた。


 この時点では、向山の脱走をそれほど問題視せず、これまでに離脱したメンバーと同じように放置していた。だから、拡大党大会を予定通り行うことに迷いはなかった。


 6月9日、丹沢ヒュッテにおいて一泊で拡大党大会を行い19名が参加した。この党大会で「銃を軸とした建党健軍武装闘争」が承認される。


 6月10日、永田・坂口・寺岡は、救援対策を担当していた京谷健司から、獄中にいる赤軍派と革命左派の友好ムードが伝えられる。そして獄中リーダー・川島豪の手紙をみせられた。そこには「そろそろ赤軍派との共闘を考えてみたら」と書いてあった。これを指示と受け取った3人は、新党結成の方向性を確認し合う。


 マークされているメンバーが1ヶ所に集まることは、大菩薩峠の一斉逮捕の前例があり、きわめて危険なことだったが、拡大党大会は無事終わった。


 6月15日ごろ、早岐が脱走を試みるもすぐに連れ戻される事件があった。しかし、その後は通常の活動を行っている。


 大槻節子は予定より2~3日遅れて山に入った。どうして遅れたかというと、山に入る前に、脱走した恋人の向山と会っていたのである。大槻は向山について日記に「あなたの中に入っていきたい」と書いているほどだったから、幹部から離脱の話を聞いただけでは納得できなかったのであろう。


 おそらくこのとき、大槻は向山の意思を確認し、きっぱりと決別を決意したはずだ。そして山に入った後、永田に向山処刑を進言するのである。