1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その3(革命左派) 逃避行 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 真岡銃砲店襲撃以降、世間が大騒ぎし、次々と指名手配される中、メンバーは札幌に潜伏していた。
 潜伏中の様子をまとめておく。


■北海道への逃避行

 奪取した銃は群馬県館林市のアジトに運ばれたが、大捜査網が敷かれ、さらに2人が逮捕されたため、すぐにアジトを移らなければならなくなった。いったん捜査網外の新潟県長岡市に移動したが、すぐに永田の知人を頼って北海道に渡り、札幌にアジトを構えた。


 そもそも2月17日に銃を奪った目的は、20日に川島の裁判があり、拘置所から移動する際に、銃を使って川島を奪還するためであった。札幌にアジトを構えたときにはすでに3月上旬であり、川島奪還どころではなくなっていた。


 そのアパートは全く日が射さず、隣の部屋とはベニヤ板で隔てられ、隣の様子がつつぬけだった。床も畳ではなくボロボロでビニールが敷いてあり、しかも平らではなく、傾斜しており、手洗いは外にあり共同だった。・・・しかし、こういうアパートでも落ち着くことができてうれしかった。
(「十六の墓標(上)」)


 ぼろアパートで、女1人(永田洋子)と男5人(坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、雪野健作、瀬木政児)の共同生活が始まった。着替えも布団もなく寒さにこごえ、資金不足でまともな食事もできない。隣に聞こえないようにひそひそ話すしかなく、指名手配のポスターがはってあるので銭湯にも行けず、トイレはそれぞれ行くわけにも行かず、洗面器ですませて汚物をすてに外の共同便所にいくあり様だった。


 しかし永田の著作からは悲壮感は感じられない。むしろ楽しかった思い出を懐かしむように筆を走らせているのが印象的だ。札幌には3月3日ごろから4月20日まで滞在した。


■銃の質論

 永田は「銃の質」を主張したが、永田の説明はわかりにくい。坂口の説明を拝借すると「永田さんが言わんとしたことは、銃を握りしめた現段階においては、権力と24時間対峙しなければならず、ちょっとした思想上の問題でも命取りにつながるた故、今こそ思想問題の解決が問われ、かつ解決されるのだ」ということであった。


 坂口によると、「思想問題」というのは、主に川島が永田に性行為を強要したことを指すらしい。永田はこのことがずっと心にひっかかっていた。永田がそれを問題提起したいのを知っていた坂口は目で永田を制した。坂口は川島の信奉者であり、川島が批判されることを好まなかったのである。


 「銃を握り締めた地平こそ思想問題を解決できるカギであると思い感激した」永田は繰り返し熱弁をふるったが、メンバーにはピンとこなかったようだ。


 坂口もさして関心はなかったが「現在から考えると、この主張は、永田さんが川島氏に対して精神的優位を得るという点で、大きな役割を果たしたと考えられる」と述べている。


■獄中の川島が機関誌を批判

 永田が書いた機関誌の内容を、獄中の川島が厳しく批判した手紙が届けられた。メンバーは動揺し、永田を頼りなく感じたようだ。


 川島氏の批判は、最初、私たちを混乱させた。吉野氏は、
「今までは永田さんや坂口さんに振り回された。今後は僕が指導してゆかねばならない」
といって、一時つっけんどんな態度をとった。寺岡氏も同様な思いをもったようだった。これらは2・17闘争を通して武装闘争にたいして一定の確信をもった彼らが、私の指導に不十分さや不満を感じていたからであろう。しかし、吉野氏は、討論の過程で、この思いを誤ったものと思ったらしく態度を改めた。寺岡氏も、討論が終わり、17号の冒頭文を書き終えた頃には私に向かって、
「やっぱり僕には指導できない。機関誌がかけないからね。今に指導してあげるから・・・」
といった。この発言に、私は、なりたくて指導者になったわけではないので、そうなってくれればありがたいと思った。
(「十六の墓標(上)」)

 永田は川島に対し激しく怒った。


 永田さんは面白くなかった。もともと批判されるのが嫌いな質で、くそみそにけなしてくる川島さんに大いに不満を募らせ、川島さんを批判した。・・・批判の矛先は手紙を手放さない私にも向けられた。・・・だが、怒りで興奮した彼女は手がつけられず、逆に私が彼女に理解を示して宥めなければならなかった。
(「あさま山荘1972(上)」)


 こうして永田は次第に川島の獄中からの指導に不満を募らせたが、次の機関誌では批判を受け入れ訂正してしまう。


 機関誌の中で銃砲店襲撃について、「2・17闘争は、敵の『武器庫』を襲い、人民の手に、本来の持ち主の手に『取り返した』、ただそれだけのことである」と位置づけた。これは赤軍派の銀行強盗などにも使われる定番理論である。


■「国際根拠地論」から「山岳ベース」へ

 永田は、中国を「国際根拠地」とすることを提案した。日本国内ではもはや銃の訓練をすることもままならないから、中国で銃の訓練しようと考えたのである。これは赤軍派の「国際根拠地論」そのままだ。寺岡、吉野、雪野が反対するものの、討論の末、消極的な同意を得た。


 しかし、公開手配されている身で、厳戒警備の中、どうやって中国に渡るつもりだったのだろうか。仮に首尾よく中国に渡って軍事訓練を行ったとしても、どうやって再び日本に戻るのだろうか。そのあたりを討論した様子はうかがえない。


 後日、中国行きは合法部を説得できず廃案になった。かといって国内では人目につき生活できない。そこで「山岳ベース」というアイデアが浮上した。


 札幌では討論をする時間は十分にあったが、討論ばかりしているわけにはいかなかった。すでに生活資金が枯渇していた。これは早急になんとかしなければならなかった。


1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その1(革命左派)

1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その2(革命左派) 永田・坂口指名手配