1971年7月 「統一赤軍」の結成(赤軍派・革命左派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■1971年7月 「統一赤軍」の結成
 獄中の川島豪の意向を受けて、革命左派は赤軍派と連絡を取り、坂口が森に「新党を作りませんか」と持ちかける。森は「当面新党は無理だから、共闘を考えよう」と逆提案し、あらためて7月13日に森と坂東が小袖ベースへ行き、まず最初に党史の交換を行うことになった。



 (森同志は)すいぶん山岳へ行くことがうれしそうで、遠足前の小学生のようにはしゃいでいました。
一応荷物を私が多く持つようにしたのですが、それでも、山を登るのはしんどかったようです。私のほうはみるにみかねて、うしろから押してやったのですが、そのかっこうがおかしいといって、あなたや坂口同志は笑っていましたね。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)



 行きは近道をせず登山道を歩いたが、森氏はかなりまいってしまい、坂東氏が森氏をうしろから押してやっていた。森氏はまえかがみになって歩けず、状態をそらすように歩き、それを坂東氏がうしろから押していたので、何となくおかしくなり笑ってしまった。バンガローあとの小袖ベースに着くと、森氏はホッとしたようだった。

 私たちがこのバンガローあとを使ったというと、非常に興味を持ち、「ホォー!」と感心していた。
(永田洋子・「十六の墓標(上)」)



 かんじんの党史の交換は全く話がかみあわず、坂東は「バカバカしくなってしまった」そうだ。永田も「よくわからなかった」と回想している。

 しかしながら、軍事的共闘という点では意見が一致し、「統一赤軍」を結成することになった。



 森氏は「統一赤軍を作ろう」と主張した。森氏は、「統一赤軍」を両派の軍を統合したものとしてではなく、それぞれの殲滅線の調査や作戦計画を互いに検討しあうものとして提起した。

 革命左派の私たちは、・・・それはよい、それはよいという感じで賛成した。私などはそのような構想がどこからでてくるのだろうと感心してしまった。

 ・・・こうして統一赤軍結成の会議を終えたが、この結成は反米愛国路線が持ち込まれなかった点で、完全に赤軍派の主導の下に行われたものだった。森氏が満足したのはその表れである。森氏は、この会議のあと青砥氏に「革命左派をオルグしてきたぞ」といったそうである。

・・・後に、川島氏がこれに反対してくるとは予想だにしなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(上)」)




 しかし、私は、路線というとセクト的になる革命左派への不信の念から、ほんとうにこれに心のそこから納得しているのか、という不安が本音のところにはありました。・・・出会いの不十分さを、革命的に変革しあっていくというより、傍観者の立場でしかなく、また、こんな不信や不安をいえば、セクト主義と批判されることを恐れたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)



 こういう具合に、彼(森)のペースで、どんどん話が進められてしまったのである。私は、内心で不安を抱きながら拱手傍観してしまった自分の無責任さを強く思わざるを得ない。何故なら、このときの合同話が、後の榛名ベースで始まる同志たちへの殴打、殺人の遠因になったからである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(上)」)



 永田たちは、われわれ赤軍派が毛沢東路線を評価してくれさえすれば統一赤軍に合流してもいいと言い出した。これはわれわれには案外受け入れやすい考えだった。なにせ毛沢東教条主義ではなくて、毛沢東路線を相対的に評価すればいいということだったから。
(荒岱介・「破天荒な人々」 第3回 青砥幹夫の証言)


 永田の話を聞いて、「しかし、政治路線はどうなったの?」と私(雪野)が聞くと、永田は「赤軍派はだんだん反米愛国路線に近づいてきている印象だ」といった。私はそんなものかな、と思ったが、はたしてそう容易に政治的一致が実現するものか、疑問は残った。しかし、その場に居合わせたメンバーの気分としては、私を含めて赤軍派との軍の統合を歓迎する空気が圧倒的だった。
(雪野健作・「情況2008年6月号」 永田指導部の形成過程)