印旛沼事件とは、連合赤軍結成前の革命左派が、脱走した早岐やす子と向山茂徳を処刑し印旛沼に埋めた事件である。
印旛沼事件が発覚したのは、翌年、あさま山荘での全員逮捕以降のことであり、吉野の自供によって1972年3月24日の朝刊で報じられた。
やや細かくなるが、彼らの手記から詳細にこの事件をふりかえってみることにする。というのは、この事件の心理的構図はそのまま連合赤軍の粛清にあてはまるように思えるからである。
■1971年7月15日 早岐やす子の脱走
永田たちは塩山ベースに移動し、集まったメンバーに統一赤軍の結成を伝えると、「本当、万歳!」と歓迎ムード一色だった。
(中略・・・向山は親戚の家に行き、そこで私服刑事と酒を飲んだりして、スリルを味わっている、また山岳ベースについての小説を書くつもりだということを永田に伝えたことが書かれている)
・・・といったあと、「向山の下山をそのまま放置していたのは問題であり、こういう言動をしている向山を殺るべきだ」といった。
彼女の報告を聞いて私は驚き、向山氏の行動は組織への敵対そのものであり、大変な問題だと思った。冷静に考え直していく余裕などなかった。私は、山岳ベースで「銃の質」を獲ち取らないで下山する人はこのように「敵対」する行動をとることになるのだ。何とか必要な対処をしなければならないと思うばかりだった。しかし、彼女の「殺るべきだ」という発言には、彼女の決意は示されているものの安易なもので行きすぎだと思った。
それで私は、彼女に「向山の下山をそのまま放置していたのは間違いだった。自己批判する。しかし、彼に対する組織的対応については十分に考えたい」といった。彼女は私を見つめうなづいた。
(永田洋子・「十六の墓標(上)」)
この話を坂口と寺岡に話している最中、交番調査に出ていた早岐の脱走の報告を受ける。寺岡は「牢屋をつくるか」といい永田は「それしかないかもしれないわねー」と応じた。
(永田洋子・「氷解-女の自立を求めて」)
■1971年7月19日 「スパイや離脱者は処刑すべきではないか」
永田と坂口は森と統一赤軍の機関誌「銃火」の会合を持つ。このとき、向山と早岐の脱走を伝え牢屋をつくって2人を連れ戻すことを伝えた。森は「ウーン」とうなり、しばらく考え込んでいたが、「スパイや離脱者は処刑すべきではないか」といった。
ただ、森の発言は永田も坂口も「一般論を述べただけで、具体的な処置を述べたものではない」と解釈し、真剣に受け止めてはいなかった。
■1971年7月21日 処刑の決定
永田は大槻を、向山と早岐の動向調査に出していたが、この日、大槻から報告を受ける。
早岐さんは脱走後「彼」のところに戻り、中村愛子さんらには山から降りてせいせいしたといい、アルバイト先の喫茶店のマスターから色が黒いと言われて山に行っていたからと答えた。中村さんらはこうした早岐さんの発言を非常に心配している。
向山氏は、小説をすでに三分の二書き上げ、その出だしは下山した向山氏のところに大槻さんから電話がかかってくることから始まり、その結末はテロリストが自爆して死ぬか、全部自供して組織が壊滅するかのどちらにするかで迷っているといっていることなどを話した。(中略)
このような2人を牢屋に入れて自己批判させることがはたしてできるだろうかと思い、途方にくれてしまった。大槻さんと別れたあと、大槻さんの報告を坂口氏、寺岡氏にした。(中略)
だいぶたってから、私は、「牢獄でやっていけるかしら」と2人に問うた。これにたいし、寺岡氏が「殺るか」といった。私はしばらく考え、処刑は大変な闘いであり、そこまでやらなければならないのかと少し迷ったが、私たちの闘いを守るためにはそれしかないと思い、「うん」と答えた。
坂口氏は黙ったまま同意する態度をとった。こうして、向山氏、早岐さんの処刑をいとも簡単に認めてしまったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(上)」)
この頃、前澤虎義は「山を降りるのは自由じゃないか」と反対し、加藤能敬(山岳ベースで死亡)も「内部の問題に暴力を持ち込むべきではない」と反対していた。そのため組織から干されていた。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」)
永田と坂口の手記によれば、処刑が決定されたあと、寺岡氏は「あとは軍に任せてくれ」といい、以降、永田と坂口は、報告を受けるだけで、計画・実行には直接関与していない。
しかし、後の裁判での論告求刑で、検察は、
「被告人永田は、組織防衛の名のもとに早岐、向山両名の理由なき処刑を提起して、被告人坂口の了承を得、寺岡を両被告人の下に呼び寄せ、・・・寺岡ら3名に辛く厳しい役目を押し付けた。」
「狡智にたけだまし討ちの殺害方法を立案し、犯行関与者に逐次緊密な連絡をとらせて常に計画の推移を掌握していた。」
と主張した。
永田は、最終意見陳述で「処刑決定の責任は私にある」とした上で、「計画を立案した」わけ」でも、「計画の推を掌握していた」わけでもなく、「検察官が主張しているような自主性をもって行動する悪女とはなれなかった。」と反論している。
■1971年7月23日 実行計画の承認
森と坂東が「銃火」の論文に対する革命左派の意見を聞くためにやってきた。
(永田洋子・「十六の墓標(上)」)
「同じ問題」とは、赤軍派は、進藤隆三郎の彼女である持原好子の言動を持て余していたことである。7月31日に坂東が植垣だけに処刑しろという党中央の指示を伝えている。おそらく森は革命左派の処刑を聞いて、対抗するために指示したのだろうと思われる。ただし、坂東と植垣は機転を利かせて、持原を部隊からはずすだけですませてしまう。
永田と坂口はこの日、寺岡から実行計画を聞く。
私と坂口氏は何も言わなかったが了解した。
(永田洋子・「十六の墓標(上)」)
■1971年7月31日 寺岡が吉野・瀬木に処刑の指示
寺岡は吉野と瀬木に処刑の指示を伝える。
寺岡氏は一方的に話し終ると小屋へ戻りかけましたが、私は気持ちの整理がつかず、「ちょっと待ってくれ」と呼び止めました。彼は振り向くと、「何だ、嫌ならいいんだ」と邪険に言い放つと、再び、小屋へ戻る姿勢を見せたので、私は慌てて、「嫌なんじゃない、すっきりしてやりたいだけだ」と縋るように言いました。
(「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」『吉野雅邦からの手紙』)
吉野は、批判を恐れ、指示に異をとなえられなかったことを正直に告白している。この従属姿勢は山岳ベースでも続き、夫婦であった金子みちよが永田に批判されたとき、金子を「いけにえ」として差し出し、永田の側についてしまうことになる。
しかし、組織のメンバーはおそらく皆、吉野と同じ心理が働いていたものと思われる。吉野は指示した寺岡についてもこう述べている。
(「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」『吉野雅邦からの手紙』)
1979年3月の吉野の一審判決(無期懲役)で石丸裁判長は、「後の山岳ベースの12名に対する場合と異なり、吉野はこれを拒否することを選ぶ自由が残されていた」という理由で、「被告人吉野が関係した本件17名の死者の中でも、この早岐に対する犯行が、一番重い刑事責任がある」と述べている。
■1971年8月3日 早岐やす子殺害
杉崎と金子は計画に沿って早岐をアパートに連れ出し酒盛りを始める。別の場所で待機していた寺岡は、計画が順調であることを坂口に報告した。
このときの私の心境は、(中略)寺岡君への対抗心があったことも否定できない。日頃強気の発言をしていた寺岡君が、土壇場で見せた弱気な一面に対し、ハッキリ説明しかねるが、私は優越感のようなものを覚え、指導的な地位を知らしめたのである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(上)」)
そして、いよいよ計画通り殺害が実行される。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」『吉野雅邦第一審判決文』より要約)
3日から4日にかけて永田と坂口は新小岩のアジトで待っていた。永田は立ったり座ったり落ち着かない。大分明るくなって、やっと彼らは戻ってきた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(上)」)
寺岡恒一はヤクザのような言葉遣いをするようになり、態度も横柄で暴力的な振る舞いをするようになる。吉野雅邦は修行僧のように山岳ベースで下部を統制していたが、鬼軍曹ぶりが度を増し仲間を怒鳴りつけるようになった。S.Mはチンピラ風の態度は変わらなかったが、内面では煩悶をくりかえすようになった。運転手役をさせられ、殺害、埋没のすべてを目撃させられる羽目に陥った小嶋和子は精神に変調をきたし、ことがあると「殺してくれ」「埋めてくれ」と口走るようになった。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」)
■1971年8月9日
森は新小岩のアジトに1人でやってきた。統一赤軍の組織についての会議であった。そのとき早岐処刑について、永田と森は次のような言葉を交わしている。
永田「私たちは殺った」
森 「殺る前になにかいわせたか」
永田「何もいわせなかった」
森 「何かいわせるべきだった」
このときは強気な発言をした森だったが、内心複雑な思いがあったようだ。坂東の記憶では日付が違っているが、次のように述べている。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)
■そこにルビコン川はなかった
早岐やす子に合理的な処刑理由などなかった。彼女は下山後、中村愛子に「山から降りてせいせいした」といい、アルバイト先の喫茶店のマスターから色が黒いと言われて「山に行っていたから」と答えただけだ。指名手配もされていないから、逮捕され自供する心配もなかったのである。
実際、他の離脱者に対する処刑は行われていないのだから、たまたま向山と同時期の離脱で、まきぞえを食った形である。
それにしても、この事件は初めての殺害であり、メンバーたちが、どこかでルビコン川を渡る瞬間があったはずだと思える。だが、そういう節目はどこにも見当たらない。いとも簡単に計画・実行が行われてしまったようにみえる。いつでも引き返すことができたが、お互いがけん制しあうように引きずられていった。
これは後の12名の粛清にもみられた心理的構図である。そして、革命左派が処刑の実戦をしたことで、赤軍派、とりわけ森恒夫に大きな圧力となってのしかかり、彼もまた引きずられていくのである。