1971年8月10日 印旛沼事件 その2・向山茂徳殺害(革命左派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

1971年8月3日 印旛沼事件 その1・早岐やす子殺害(革命左派) より続く)


 早岐やす子の殺害は永田・坂口と実行メンバー(寺岡・吉野・瀬木と運転手の小嶋)以外には秘密にしていた。だが、メンバーは皆勘付いていた。


 合法・非合法を問わずメンバーの表情が暗く、口数が少なくなった。実行者と私、永田さん以外には殺害の事実を知る者はいなかったが、みんな勘付いており、私や永田さんの表情を窺ったり、何か言い出すのを期待している風であったが、面と向かって早岐さんの消息を尋ねてくる者はいなかった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(上)」)

 早岐やす子殺害からわずか1週間後、向山茂徳を殺害する。


■1971年8月9日 「何か暗いものを感じる」

 坂口が永田に「処刑に何か暗いものを感じる」とポツンといった。永田は寺岡を交えて処刑の理由を説明すると、坂口はそれには何もいわず「わかった」といった。実は早岐殺害のあと、坂口は後悔していた。このとき、向山殺害を思いとどまらせようとしたのだが、ついに言い出せなかったのである。


■1971年8月10日 向山茂徳殺害
 実行部隊のリーダーである寺岡は、死体を埋める場所が見つからないまま処刑当日を迎えた。この日、大槻、金子、杉崎の3人が回田荘に向山を呼び出した。しかし3人とも向山が処刑されることは知らされていない。もっとも大槻は「向山を殺るべきだ」と永田に進言していたので、何が起こるかわかっていたはずである。


 喫茶店で連絡役として待機していた永田は杉崎に電話をかけて様子を聞く。

 杉崎さんは「向山は回田荘に来たが、今日、上京してくる弟を迎えに行く必要があるといって帰りたがっている。一度、本当に帰ろうとして立ち上がったけど、大槻さんがとっさに倒れる格好をして何としても向山を引きとめようとした。大槻さんは必死だった。向山は大槻さんが倒れたことに心配してとどまり、彼女がよくなるのをみとどけることにした。でも、警戒して向山は何も飲まないし、食べもしない」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(上)」)

 その後、寺岡から永田に「早岐を埋めた場所と同じ所に埋める」と連絡がある。このとき再び杉崎と話す。

 杉崎さんは「向山はまだ飲みも食べもしない。大槻さんはグデングデンに酔っ払っている」といった。(中略)

 私は、他のことを考えられず、こんな大変な思いまでして闘争をしていかなければならないのかと思い、悲壮感でいっぱいだった。
(永田洋子・「十六の墓標(上)」)


■1971年8月11日 「どんなことがあっても闘っていこうと3人で確認した」


 未明に、寺岡氏、吉野氏、瀬木氏、小嶋さんの4人が新小岩のアジトに来た。彼らは早岐さん処刑のときよりも落ち着いた様子だった。

 この時に、寺岡氏から向山氏の処刑の報告を聞いたが、それは吉野氏が向山氏が酒も飲まず眠っていないなら、自分たちで乗り込んで気絶させて連れ出す以外にないといい、そう決め、部屋の中に入って行ったら、向山氏が立ち上がって暴れたので焦ったということであった。彼らは詳しくは言わなかった。


 このあと、寺岡氏は私に、「今日、杉崎さんか金子さんのどちらかに会ってほしい」といった。「会って何を話すの」と聞くと、寺岡氏は「向山を連れ出して以降のことと大槻さんのことだ。大槻さんは暴れまわる向山を押さえつけている時、台所のカーテンのところにしゃがみこみ、何も手伝わなかった」といった。


 私は了解したが、寺岡氏は、回田荘のアパートで事の成り行きで杉崎さんや金子さんにも手伝わせて向山氏を殺してしまったことから、この時、ともかく彼女たちに、この処刑を支持させることを私に頼みたかったと思われる。
(永田洋子・「十六の墓標(上)」)


 永田は回田荘に電話をかけると、何も聞かないうちに、杉崎に「3人(金子、大槻、杉崎)で語り明かした。大槻さんはしっかりしている。大丈夫だ」といわれた。昼間に金子と会うが、このときは笑顔で、さっそうとしていた。


 金子さんは、「向山が帰るといって立ち上がったとき、私らにはなす術がないほどだったけど、大槻さんがとっさに倒れる真似をしたので、向山はとどまった。大槻さんは向山をとどめるのに必死だった。その時は、大槻さんを大したものだと思った。

 しかし、向山がとどまったら、じゃんじゃんお酒を飲み、大槻さん1人グデングデンになってしまった。だから、大槻さんにはいくらかの動揺があったようだった。だけど、向山がアパートから連れ出されてからは動揺もなくなったようであり、しっかりした。語り明かした時、どんなことがあっても闘っていこうと3人で確認した」といった。


金子さん、杉崎さん、大槻さんの3人はともに横浜国大教育学部の出身で同級生であった。
(永田洋子・「十六の墓標(上)」)


 この計画では、酒に睡眠薬を混ぜて向山に飲ませえて眠らせ、外に連れ出して殺害する計画であったが、向山は帰りをいそいでウイスキーをあまり呑もうとしないので、急遽計画を変更し、殴って気絶させて連れ出すべく、寺岡、被告人吉野、S.Mが回田荘に乗り込み、ついにそこで、向山の虚を突いて3名で襲いかかり、殺意をもって殴る蹴るの暴行を執拗に繰り返し、今までは殺害するまでの計画とは知らなかったSや金子にまで手伝わせて、向山の首を腕やタオルで絞めて悶死させている。

 この殺害行為も早岐のときと同様に、向山の「同志」に対する信頼を逆用して明らかにそれを裏切って一言の弁解をさせずに、問答無用とばかり抹消し、早岐と同様に全裸で土中に埋没した悪辣非道な犯行である。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」『吉野雅邦第一審判決文』)


 金子みちよ、大槻節子、杉崎ミサ子の3人は、処刑計画を知らずに向山殺害の現場に遭遇したにもかかわらず、成り行きとはいえ手を貸している。常識では考えられない精神力だが、引止め役を引き受けたときから処刑を予期していたのであろうか。


 向山もまた、酒も飲まず何も食べずで、寺岡たちがアパートに入ってくると暴れだした。やはり、そういう事態を警戒していたようにも思える。


■証言記録

 印旛沼事件についての証言を掲載しておく。


 当時われわれの組織において「組織防衛」の論理は説得力を持った。われわれはメンバーを山岳に結集させていたため、ひとたび警察に察知された場合、一網打尽に逮捕される恐れがあった。このため、向山君に警察が接触しているとの情報がもたらされた時、山にいたすべてのメンバーが組織を防衛することを考えた。こういう訳で監禁方針や殺害方法が出されても誰一人正面切って反対した者はいない。
(坂口弘・最終意見陳述)


 私が処刑方針に同意したのは、武装闘争の時代には、組織への敵対者に対する処刑は必要なものであり、そうした厳しい規律が無ければ非合法活動を維持してゆくことはできない、それだけの厳しさを持って闘っていくことは革命的なのだと思っていたことによる。
(永田洋子・最終意見陳述)


 私は、この殺害決定の経緯から見て、この両名殺害は、警察からの組織防衛というよりは、むしろ永田さんの浮き上がった指導者としての心理が決定的な役割を果たした、と思っています。小袖ベースでの反永田機運は一応沈静化しましたが、彼女にとっては大きな衝撃となっていつまでも消えなかったはずです。

 論理的に正当と確信したために彼女は殺害を決断したのではなく、2人への怒りと、自分の立場への不安感から寺岡君に「踏み絵」を迫るごとく、殺害を指示し、請け負わせたのだ、と私は見ます。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」『吉野雅邦の手紙(1982年12月7日付』)


 8月上旬、森同志は(再び)革命左派から会議要請を受けたのですが、処刑問題のことなどがあって気が進まなかったのだと思います。私一人で会議に行ってほしいということで、「銃の要請と、米子闘争の敗北の総括をしてきてほしい」と言われました。

 私は永田同志と2人きりで会議を持つことになり、日の当たる川原で向き合っていました。


 私が話しにくそうにしていると、永田同志の方から「まず、最初に話します」と切り出し、「2人目の処刑を行いました」というのを聞かされました。その際、「自分たちに力があれば牢獄に入れておくこともできたのですが、それをやる力もなかったので、仕方なくやりました」というのを聞いて、正直言ってその時、「この人は恐ろしい人だ」と思いました。冷静な口調で、それについては何も言わせない、という迫力がありました。(中略)


 また、私はご飯にワサビをかけて食べていたり、砂糖をなめたりしている生活のあり方や、永田同志と他の同志たちとの関係を見て、何か新興宗教のような感じを永田同志に持ってしまったのです。だから、私の中で、実体以上の大きな永田同志像を観念化し、「怪物」のような存在として大きく見てしまったのです。(中略)


 私は東京に戻ってから、「銃の要請は断られたこと」「米子のことでうまく自己批判できなかったこと」を森同志に報告しました。そして、「革命左派が2人目を殺ったと言ってたよ」と言うと、非常に衝撃を受けた様子で、「え、また殺ったのか、もはやあいつらは革命家じゃないよ。頭がおかしくなったんじゃないか」といいながら、暗い顔でじっと下を向いていました。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」『坂東国男供述書(1984年2月24日レバノンにて)』)


「米子闘争での失敗」は下記を参照。

1971年7月23日 米子でM作戦失敗 真岡の銃所持(赤軍派)


 向山氏、早岐さんの処刑が決定された時、私は、「処刑が必要になるほど、革命戦争が前進したのだと思った。独自の革命の権力、秩序が要求されているのだと考えたのである。(中略)

 ただ、私は逃亡者は処刑とは考えていなかった。今から思うと、脱走後の向山氏についての報告がなければ、離脱した早岐さんはそのまま放置されたのではないかと思う。2人についての報告が重なったことから、殲滅戦の調査に加わっていた早岐さんがその調査中に離脱したことは、殲滅戦の実行後、権力の追及にあえば、すべては自供してしまうだろうと判断し、向山氏と同様の対処をとることにしたのである。

 同時期に離脱した目黒さんが何ら問題にされず放置されたのは、こうした事情によるのである。
(永田洋子・「氷解-女の自立を求めて」)


 自分たちの闘争に忠実な人だけを信頼し、そうでない人を信頼せず、排外的に対処していった。向山氏たちの処刑は敵対しているとみなした者へのこうした排外性に基づいていたのである。(中略)

 それは、私たちが自分たちの武装闘争だけを先進的な闘争とみなして、様々な分野での闘争の多様性を認めようとしなかった閉鎖性に他ならなかった。まさにこのような私たちの人間性を欠落させた貧弱で弱い人間観、革命観故に、武装闘争がゆきづまった時、12名の同志「殺害」へといたることになったのである。
(永田洋子・「氷解-女の自立を求めて」)

 永田や坂口の手記には、2人の殺害にいたる過程の随所において「誤り」と「反省」が書き綴られている。しかし、もともと合法メンバーまで山に結集したことが根本的な誤りではないだろうか。

 指名手配されている非合法メンバーは山で自由を得たかもしれない。だが、もとより自由に生活していた合法メンバーにとっては、常時指導部の監視下におかれるストレスにはじまり、食生活、雑魚寝やトレの問題にいたるまで、窮屈に感じる者がいても何の不思議もない。

 永田たちはそれに気づこうとしないし、表面化したときには「脱落者」「裏切り者」「スパイ」などとレッテルを貼ることによって責任を転嫁し、本質を隠蔽している。その上、それを「革命的」とか「大変な闘争をやり遂げた」などと正当化するにいたっては、独裁者の論理というしかない。


 森恒夫は、革命左派における早岐やす子、向山茂徳の殺害をどうとらえたのか。森は処刑にはいい気持ちはしなかったが、「実績」において遅れをとったと感じていた。そして「実績」で対抗する方向に舵をきるのである。


 こうした森と永田の相互作用は、より過激な方針を再生産し、連合赤軍での12名同志殺害につながっていくのである。