■1971年7月23日 銀行に小銃?強盗 米子で600万円奪う(朝日・夕刊)
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■1971年7月24日 赤軍派2人逮捕 真岡の盗難銃所持(朝日)
現金奪取には成功するものの、メンバーは検問にひっかかり、全員逮捕されてしまった。このとき、革命左派が奪ったはずの真岡銃砲店の猟銃が発見され、赤軍派と革命左派が共闘している事実が明るみに出た。
■残る2人も逮捕 赤軍派と京浜安保の握手(朝日・夕刊)
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森恒夫は今後は殲滅戦に集中するため、M作戦の中止命令を出していたが、実行メンバーに届かなかったようだ。結果として、これが最後のM作戦となった。
赤軍派は森恒夫がリーダーになってから、森の独裁という印象が強いが、側近の坂東国男は違った目でみていた。
森同志が東京にもどって全体の指揮をとることは全同志の願いでもありました。このとき、私は、森同志の心情として、指導に確信がもてず、自分も軍としてやることでその問題を考えたいという気持ちであるのを手に取るように感じていたのです。にもかかわらず、自分が軍として「力仕事」はやるから、指導は森同志にやってほしいとして、指導責任をおしつけ、依存していく安易な道を選んだのです。
森同志がとにかく指導者として一切を放棄しないで頑張ろうとしていること、人に対してやさしいことで私は信頼していました。しかし、人にいわれると迎合、妥協したり、すぐ動揺する信念のなさが、何度か矛盾とあつれきをつくり出していることも知っていたのです。
私は永田同志に手紙を書きながら、自らのあり方をふりかえり、森同志がいかに指導権をふるって全体を誤りに導いたかということより-それは事実としてあったわけですが-いつも決定的な時点で、判断が問われ、森同志自身が弱気になったり、迷ったりしたとき、かならず、私がどうしているか、断固としているか、消耗しているかをみて、それを1つの目安として決断していたということに思い至りました。
だから自分の思想の未熟さや、自己を改造しながら働きかけていく指導性の欠如の故に、私が逆に森同志を誤った方向に導いたことをとらえ返すことが必要だと考えているのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)
「永田洋子さんへの手紙」(1984年)は「十六の墓標」(永田洋子)を読んだ坂東が永田への読後返信の形で書きしるしたもの。
坂東は、後に、あさま山荘銃撃戦で逮捕され、1975年の日本赤軍の在クアラルンプール米国大使館占拠で人質との交換条件として超法規的に出国し、日本赤軍に合流した。その後、アラブでの経験を経た上での著作である。
さて、銃を手にした赤軍派と革命左派は、厳戒態勢から逃れながらも「銃による殲滅戦」を目指していた。だがその前に、両派とも同じ問題をかかえていて、処置に頭を悩ませていた・・・処刑問題である。