以前、鹿児島市にある極めて古い建物群をピックアップして紹介した.その建物は数百年前のタルタリア帝国の時代のものであるというふうに私は断定して述べた.

 

 

その中で鹿児島市中央公民館の全体画像を掲載したものがある.今回はこの鹿児島市中央公民館についてもう少し詳しく見てみよう.
 先ず,この写真1は正面から撮ったものである.階段があって地面からは一段高い位置に玄関があることが分かる.そして,階段を上ってみて感じたのは一段一段がかなり高く,大幅で足を上げないと登れない.嘗ての巨人のサイズに合わせた建物であった雰囲気が感じとれる.

  
     写真1 正面玄関外観

 次に,この2つの写真2写真3はこの建物の左脇側から撮ったものである.地面よりも一段低い位置に小さい入り口があるのが分かる.この入り口が本来の建物の1階部分だったのだろうか.マッドフラッド研究愛好者によれば泥の洪水が嘗て起こった所為で建物の1階部分が一部,或いは,完全に埋まっているのが世界中で発見されているとのことである.

      
      写真2  左脇から正面スロープ部

      
      写真3  左脇から側面部

 同様に,次の写真4は正面玄関を下から撮ったものである.コンクリートが色褪せて実に古い感じを受ける.しかし,微妙なカーブがあって現代建築の技術でこれを忠実に再現できるだろうかといったような疑問が沸々と湧いてくる.

  
     写真4  正面玄関を下から

 次に,側面の窓の様子を撮ったものである.長方形の窓に何やら独特の文様があるアーチ型の物が施されている.

     
     写真5 側面窓

 その窓を拡大したものを次に示す.このデザインは鹿児島市の周りの和風建築や近年建てられたビルとは異質で,風景にどうも馴染まない.異様な雰囲気を醸し出している.見方によってはヨーロッパ風でキリスト教の教会の感じがするのである.

     
     写真6 異様な文様の窓枠

 最後に,玄関に入って正面にあったこの建物の案内文である.「この建物は,今上陛下(昭和天皇)の皇太子時代御成婚記念事業として,第五代市長山本 徳次郎 氏,第六代市長伊集院 俊 氏によって企画され,大正十五年八月第七代市長上野 篤 氏の時に起工,昭和二年十月第八代市長白男川 譲介 氏の時代に完成したものである.昭和三十四年一月 鹿児島市長 勝目 清」とある.この建物は本当に昭和2年に完成したものだろうか?私はこの重厚で一回り巨大な洋風建築の雰囲気からして,明治どころかもっと古い18世紀頃のものと感じられるのだが,….

  
      写真7  案内文

以上が今回撮影した写真画像である.あいにく写真を撮った日にPTAの会合があって中の様子が見れなかった.何れ内装についても詳しく調べることとする.
 扨て,大方の人々は江戸時代が和風木材建築が常であって,コンクリート構造建築なんて皆無であった筈だというふうに,残念ながら,固定観念・先入観をもって呑気に生きている.このことはテレビが大きく悪い影響を及ぼしているに違いない.テレビでは何十年も前から時代劇を放映するときは,例えば,京都太秦撮影所等のように木造建築物なので,まさかコンクリートは無かったろうというふうに人々は早とちりしているのである.
 また,以前,加藤清正公の霊界通信では加藤清正公自身が現在の熊本城を見て驚き,自分が建てたものと全く違うといったふうに嘆いている場面がある.

 

 

 なお,タルタリア帝国について未だ御存じない方向けに既に解説を試みているので,次に掲げる.

 

 

 今後も日本各地に残る異常に古い建物について調査を継続していくつもりである.