近頃,オルタナティブ歴史研究と称するグループが日本のみならず,海外にも多く存在している.そのグループは公的な機関に在籍している考古学者や学位取得者の歴史研究家が所属する学会ではなく,アマチュアでありながら歴史を広い視野で捉え,建物や遺跡の由来などを自由な発想で考察するというスタンスで取り組んでいる.例えば,寝起きの考察さんを中心とするグループは我々が学校の歴史で学んだような所謂「江戸時代」は本当はなかったとする前提で,日本各地の古い建物や寺院・遺跡・洞窟・墓等を観察し,それらの繋がりを時代背景に照らして考察を進めている.

 

 

 


 一方で,私がいつも引用する月刊誌「宇宙の理」には霊界通信があって,数百年前に霊界入りした多くの霊魂の語りが記録されている.特に,戦国時代に活躍した加藤清正公が死後霊界で過ごし,そして現在(1990年代)の様子を「取次の補助器械」と称する所謂「霊媒師」の方を通じて語っている.今回はその語りについて次に示す.

 霊界浄化通信 (補助器械・授諭者による)

 加藤清正公の霊 (平成2年(1990年)10月13日受信)

 嬉しいのじゃ.この様な場所が有ったとは知らなかった.有難い.(熊本城を見て) 何だ,あの城は.あれが城か!何と言うことだ.わが城が,あの様なあの様な,ああ嘆かわしい.(昔とは) 違う違う違う.今やっと地獄の底より出て見れば,わが城は人の業の渦巻く城となり果てておるわ.何が観光だ,嘆かわしい,如何様な事が有ろうとも城を観光と言う名に於いて人に見せるとは,はなはだ遺憾千万.門を閉め,人を入らずめして供養するのが先じゃ.わが城がわが城でない事が一番悲しい.

 加藤清正公 (平成2年(1990年)10月16日受信)

 何故この様な所にわしを呼んだ.わしは地獄の苦しみを味わっている故,あまりこう言う場所に呼ぶべきではない.皆の者の事を考えれば,わしが地獄にいる事などいとも容易い事だ.(城を建てたのは) われはここに在りと言う我欲の心であった.自分を思い上がらせておったのじゃ.城と言うものは国を栄えさせるものでなければいけない.国が栄えあろう栄えあろうと願う為にあると知れ.

 加藤清正公の霊 (平成2年(1990年)10月22日受信)

 ここは良い所じゃ,背中がポカポカといい気持であるぞ.一つだけ言いたい事がある.吾が銅像は城の中になくともよい.城の中には銅像などいらぬ.城には城の風情があるものだ.吾が銅像を置くのは甚だ遺憾千万.まるで,吾はここに有りと高ぶることになる訳だ.吾,名将と謳われしが名将にあらず,唯一介の城主.(授諭者が色々と城内や周辺の浄化の方法等に付いて清正公にお聞きする.) 吾が城は煌々と燃え明るく輝いている.心よりお礼申しまする.次の国の城主 (熊本県知事) となる者は月に一度は吾が城に上りて模索せよ.熊本の地治まれば,この九州の地必ず治まる.


 以上のように,加藤清正公は現在の熊本城を見て昔と大違いだとして驚嘆したのである.「見世物観光名所としてこのような異質な形に作り替えたとは,...」と嘆いている様子から推定すると,戦国時代から江戸期に建てられた本当の熊本城は現在のような木造建築物ではなく,全て石造りで洋風だったのではないか?そして,1816年ごろに起こったとされる核戦争で世界に跨るタルタリア帝国文明が滅んで石造りの城が壊滅したのだろう.こういったところからも,学校教育で教え込まれた歴史が如何に歪曲され間違ったものであるか,そして,現政権を維持したい勢力が真の日本の歴史を態と捻じ曲げて我々庶民に伝えて来たことがうかがえるのである.
 また,この通信から何を学ぶべきかであるが,この理誌の注釈には「清正公は実に多くのことを語っておられるが,いずれも身を低くしたところより語っておられる.世に有名な,トラ退治の話や朝鮮征伐の話など,どれもご自身の心とは掛け離れた形で語られている事を嘆いておられる.この様に大変な立派な霊位の高い方でも死後は地獄に居られると言う.何故か?それは,上に立つ者として全ての責任を負わされた結果である.」とある.因果応報とはいえ,死後数百年間も地獄にいなければならないとは実に霊界は峻厳である.
 最後に,窪田志一著「岩屋天狗と千年王国」には加藤清正公は岩屋天狗こと橋口弥次郎の孫であるという記載がある.ということは弥次郎と同様に身長が3メートルを超えるほどの大男であった可能性もある.この辺も今後オルタナティブ歴史研究が進展すればより詳細になるのだろう.

文献
1) 城戸 縁信:霊界浄化通信,宇宙の理,ザ・コスモロジー,No.221~223,(1991).
2) 窪田 志一:岩屋天狗と千年王国 下,岩屋梓梁顕彰会,(1987).