京都国立博物館で、久しぶりの国宝展が今月26日(日)まで開催されています。

 それにちなんで、ちょっとした東西比較を。

 国宝・重文を多く所蔵(所有)するのは、やはり旧財閥系と鉄道系の美術館でしょうか。

 まず東京で。

 三菱系の静嘉堂文庫美術館では、岩崎弥之助・小弥太父子のコレクションを中心に国宝7・重文82件ほどを所蔵しているようです。

 三井記念美術館は、国宝6・重文22件ほどの所蔵のようです。

 東武鉄道の社長などを務めた根津嘉一郎のコレクションによる根津美術館は、国宝7・重文90件近くを所蔵しているようです。

 五島美術館では、東急電鉄を創設した五島慶太のコレクションを中心に国宝5+3・重文50+20件余(+は大東急記念文庫分)を所蔵しているようです。

 その他、畠山美術館が国宝6件、大倉集古館が3件ほどを収蔵するようです。

 次に関西。

 住友のコレクションの多くを収蔵する京都の泉屋博古館は、国宝2・重文13件ほどの所蔵のようです。

 阪急電鉄を創設した小林一三の逸翁美術館は、重文15件ほどのようです。

 関西、特に泉州には、繊維産業関係で財をなしたコレクターが多く、泉北郡忠岡町の正木美術館は国宝3・重文12件ほどを所蔵しているようです。

 和泉市久保惣記念美術館は、国王2・重文29件ほどを所蔵しているようです。、

 京都市の細見美術館の細見さんも、出身は泉大津市のようです。

 関西で最も国宝を所蔵する私立美術館は、たぶん長州藩の萩出身で、明治に財閥「藤田組」を創業した藤田伝三郎の蒐集品を展示する大阪の藤田美術館でしょう。国宝9件・重文52件ほどを所蔵します。

 国宝は全国に千余件(重文1万余件)ありますが、都道府県では東京都が一番多く276件ほどのようです。そのうちの89件ほどは東京国立博物館所蔵です。

 関東・関西ということになると、関東は東京以外は少なく二番手の神奈川県で18件ほどです。関西は、二府四県合わせれば600件近く、関東の倍ほどになります。しかし、同じ国立博物館でも京都は28件、奈良は13件ほどと、東京よりずっと少ないので、寺社や民間での所蔵が関西では多いということになるのでしょう。

 東京や関西以外では、名古屋の徳川美術館が9件、防府の毛利博物館が4件ほど所蔵しているのが多い所でしょうか。

 東京一極集中以上に、やはり歴史のある関西に集中しているのですが、関西は良くも悪くも多様であり、京都や大阪への一極集中ではありませんね。

 関西各地が協力しあって、その魅力をさらに上手に発信できればいいのになあと思います。

 

 堺市の旧市街地、スターバックスの隣にオープンしたさかい利晶の杜に行ってきました。千利休の利と、与謝野晶子の晶で「利晶」らしいです。

 そこで売っていた常設展示図録『さかい利晶の杜展示館案内』に、次のようにまとめられていました。


 千利休・与謝野晶子館にみる堺の国際性と日本美

さかい利晶の杜での展示館(展示室)は、千利休と与謝野晶子、観光案内に関する常設展示館、および企画展示室の主に4つからなっています。

その中心となるのが、利休と晶子の常設展示館です。利休館は、安土桃山時代ころの堺のまちと茶の湯文化、千利休を紹介する「千利休茶の湯館」であり、晶子館は、明治・大正時代ころの堺のまちと晶子の文学作品やその生涯を紹介する「与謝野晶子記念館」です。

この2つの常設館は、茶の湯館と文学記念館として、それぞれ独自の事業を展開します。

一方で、利休と晶子の展示をとおして、二人に共通する堺という歴史都市の紹介も、ここではおこないます。

まず「千利休茶の湯館」ですが、利休が活躍した時代には、ヨーロッパの外洋航海船によってヨーロッパやインド、東南アジア、中国などのさまざまな文物が港町である堺に流入しました。

武野紹鷗など利休以前の茶人は、唐物(からもの)など中国から輸入された高級な茶道具を数多く使いました。

一方で利休は、中国製でもやや大衆的なものであるとか、庶民の生活用具であった高麗茶碗やルソン壺、南蛮ものなどに大きな価値を見いだしました。


利休の時代、堺のまちで「市中の山居」(しちゅうのさんきょ)が流行していたことを、イエズス会の宣教師が記しています。密集した市街地で、店舗のある表通りから路地を入った屋敷地の奥に、草案風の茶室である「山居」を設けたものです。自らの楽しみの場でもあり、商人が得意客を招待する応接室でもあったようです。

都市化が進んだ現代と違って、密集した市街地が形成されていたのは紹鷗や利休の屋敷地があった堺の中心部の他は、京都の一部などしかなかった時代です。

農村地帯に「山居」を設けても珍しいことではなく、堺という都市の中心部で生まれた流行でした。


次に「与謝野晶子記念館」ですが、晶子が満22歳6か月で上京するまで、堺で多感な娘時代を過ごしただろう明治前半期の堺も、欧米の新しい文物が流入する都市でした。

なかでも晶子が生まれ育った駿河屋堺店ですが、これも堺の中心部にあり、時計を家の外壁に据え付けた当時としては珍しい家でした。

西洋好きの父親による、和様折衷のかなりユニークな店舗・町家だったようです。



そうしたことが影響したのか、晶子の兄の鳳秀太郎は、欧米留学を経て東京大学教授や電気学会会長を務める著名人となります。

晶子も、父親や兄たちの影響があったのかトルストイを長く信奉し、渡欧してパリに滞在した時は、ロダンと親交を結ぶなどもしています。

夫の与謝野寛(鉄幹)たちが発行した雑誌『明星』には、アルフォンス・ミュシャなどヨーロッパの都市文化の影響も強くありました。



日本文化の特徴は、外来文化の和風化にあります。松尾芭蕉は「風雅」を強調し、西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶に貫徹するものは一つであるとしています。

利休も晶子も堺のまちで刺激をうけ外来文化を吸収・消化し、新しい日本美や生活様式、文芸などの日本文化を作りあげていったのだと思います。



さかい利晶の杜の展示館では、長い歴史を刻んだ国際都市である堺に来訪する国内外の人々が、堺で育まれた日本美や日本文化を楽しんでいただけるような工夫を、これからもできる限りしていく予定です。




私の知り合いに、その知り合いから送られた記事をお借りして、以下に貼り付けさせてもらいます。

 ()、徳川家康と天領堺

家康(一五四二~一六一六年)は天正十年(一五八二)、堺を遊覧直後に本能寺の変を知る。そのため、河内から三河まで、小人数で逃げ帰ることになる。

関ヶ原の戦い後、堺は徳川方の領地になり、宗久の子今井宗薫が家康の御用を務める。

慶長十七年(一六一二)六月、スペイン人ビスカイノは、西国を船で測量していた部下の航海士らと堺で合流した。堺は「甚だ広大にして都の市と同じく商業の市なり。海岸の大なる湾内に在り、船の港にして帝国の船悉く同所に集れり」(「ビスカイノ金銀島探検報告」『異国叢書』雄松堂書店、一九二八年、一三六頁)。

堺のまちは、豊臣方から徳川方になっても、帝国(日本)の船がことごとく集まる港であったことが分かる。南蛮船も少し堺港に入っているが、それはイエズス会と協力関係にあったポルトガル船ではなく、太平洋航路で東からやってきて紀淡海峡を大阪湾に入ってきたスペイン船であった。ビスカイノは金銀島を探すためなどに日本に来た。

こうして、ポルトガル船に少し遅れて来航したスペイン船が、測量が済んだ堺の港にも続々と入港するはずであった。しかし、徳川政権の鎖国政策によって、貿易港は平戸、そして長崎に限定されることになるのである(拙稿「港からみた堺の歴史」『堺市博物館報』二七号、五〇頁)。

大坂夏の陣で、堺のまちは豊臣方に火をかけられ、ほぼ全焼してしまう。戦後復興で、町並の大幅な改変・整備がなされた。堺のまちを理解するには、第三節に記すとおり夏の陣の以前と以後で大きく異なることを理解する必要がある。

 寺町が、この時にまちの東部に整備されている。東側の堀の内側であり、堀と寺町の間には農人町が設けられた。第二次世界大戦後の昭和二十年代から三十年代にかけて、堀に流れ込む汚水による悪臭問題などもあり、高速道路を通すために東側の堀を埋めることが検討され実行されるところとなった。世界的にも珍しい農人町の町並みも、一棟も残らず土居川公園などになってしまった。

 都市のはずれに寺町を整備することは、一般的には防御のためとされるが、そうではなく信長以来続く都市振興策ではないのか。京や大坂では秀吉が実施しており、堺でも一部、秀吉が先行して実施したかもしれないが、いずれも防御のためとは思えない。すでに戦国時代ではないし、天領とはいえ広大な商人町全体の防御まで、幕府は考えないだろう。地方の城下町では、そういうところもあったかもしれないが、そこでも振興が主ではなかっただろうか。

堺(旧市域)南部の臨済宗大徳寺派の南宗寺に、家康の墓があるという。大坂夏の陣で、豊臣方の真田幸村に追われて堺に逃げ込んだところを後藤又兵衛(基次)に殺され、南宗寺に埋められたという伝説である。上方講談の「難波戦記」「真田三代記」などで語り継がれ、今も語られることがある。しかし、又兵衛の討死は五月六日、幸村は七日、秀頼・淀君の自害は八日であるが、堺の炎上は四月二八日であることから、信憑性は低いだろう。

元和九年(一六二三)に徳川秀忠・家光父子が相次いで堺、南宗寺に来たことがその証拠であるとする説もあるようだが、周知のとおり家光が将軍宣下を受けるため、および上方を視察するために京都、伏見、大坂、堺に二人は来たのであった。この時期まだ、堺は経済都市として幕府にとって重要な拠点であった。特に南宗寺は、沢庵の努力で旧市街地南部の広い寺地を元和三年には確保し、同五年には再興工事をほぼ竣工させていた。

なぜこのような伝説が生まれたのか、その理由を知りたいところであるが、幸村や又兵衛は最も人気のあった武将である。



 (五)、三好元長・長慶父子から天下人の時代へ

 天下人といえば、信長・秀吉・家康の三人であるが、その基礎を築いたのは三好長慶であろう。

 第二次世界大戦での空襲の被害が比較的少なく、今でも堺(旧市域)の二大寺院ともいえるのが南部の南宗寺、北部の妙國寺であるが、南宗寺は三好長慶の建立であり、妙國寺は実弟である三好実休の建立である。堺幕府の実質的な中心であった三好元長は、長慶の父親である。堺と三好一族との関係は、実に深いものがある。

南宗寺(なんしゅうじ)は、堺旧市域南部にある臨済宗大徳寺派の寺院である。三好氏の菩提寺で、茶人の武野紹鴎や千利休が関係した寺でもある。

畿内一の実力者となった三好長慶が、前身の南宗庵を拡大し、父・元長の菩提を弔うため、弘治二~三年(一五五六~七)に七重大塔や三好神廟を建造し、大徳寺九十世の大林宗套を開山としたが、慶長二十年(一六一五)の大坂夏の陣の兵火で堺の町とともに焼失した。

その後、沢庵宗彭らによって現在地に再興された。太平洋戦争の空襲で一部の建物を焼失したが、江戸時代の禅宗寺院の雰囲気をとどめる。

妙國寺(みょうこくじ)は、堺旧市域北部にある日蓮宗の寺院である。開基は、長慶ら三好四兄弟の一人である三好豊前守義賢(実休)である。国指定天然記念物の大蘇鉄などで、今も有名である。

天正十年(一五八二)本能寺の変の時に、徳川家康はここ妙國寺で宿泊している。また、幕末に起こった堺事件ゆかりの寺としても知られる。

実休が、大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁(一丁は約一〇九m)の土地を、開山である日珖に寄進したと伝える。元亀二年(一五七一)に本堂が竣工している。

第二次大戦末の昭和二十年七月、堺大空襲による戦火で再びかなりの部分が焼失したが、伝来の寺宝や大蘇鉄などはかなり残り、昭和四十八年に本堂も再建され現在に至っている。

三好氏と堺の商人たちは、茶の湯でのつながりも大きかったようである。織田信長が所持した名物茶器の半分以上は、元々三好氏が所持していたものであった(竹本千鶴『織豊期の茶会と政治』思文閣出版、二〇〇六年。天野忠幸「戦国期における三好氏の堺支配をめぐって」『堺市博物館報』三〇号、二〇一一年、一二七頁)。

堺と関係した権門寺社や武将を、時代順にざっと振り返ると、住吉大社、山名・大内、足利・細川・三好、織田・豊臣・徳川などである。

古代は住吉領だっただろうから、堺に領主(神主・宮司)はいなかったはずである(「堺の歴史は住吉御旅所から」『堺市博物館報』三十号、二〇一一年)。堺が庄園になる鎌倉時代ころでも、庄園領主は京都などにおり、堺には代官だけであった。

南北朝時代の末になって、山名氏清、大内義弘が領主として堺に来た。和泉国の守護所も、山名氏により和泉府中あたりから堺へ移されている。堺が大大名の城下町となり、いまでいう県庁所在地にもなった期間だった。

しかしその後の細川、三好支配時代は、堺にはまた代官のみ駐在した。それによって、商人による自治が発展した。織田~徳川期も同じである。それ以後もずっと代官が派遣されるのみであった。そして堺県の県令や大鳥郡堺区長、堺市長を置く明治に到り今に続く。

天下人が堺に求めたものは、信長が経済力や今井宗久らによる武器製造、秀吉も経済力であり、大坂()の外港化を目指したようだが、最後に断念して船場の開発を進めた。いずれも、堺を支配しようとした訳ではない。



本稿の主要部分は、昨年後半に行なったいくつかの講演会の原稿などを基に、それらを加除して組み直したものである。

 まず第一節は、仕事などで見聞し感じたことを、試論として少しまとめた新稿である。

 第二節は、昨年十一月九日に関西大学東京センターで行なった関西大学×堺市連携公開講座千利休と堺の第二回「堺の利休‐わび茶と黄金の日々‐」、および十二月二十一日によみうり堺文化センターで行なった映画利休にたずねよ公開記念特別講座「千利休そして金銀の都市・堺」などの講演会を基にまとめた。利休については、一昨年あたりから高齢者大学や女性大学などでしゃべってきたが、茶の湯文化史は専門外でありまだまだ不勉強である。

 なお、第二節前半部の原稿は、昨年十一月六日発行の『月刊歴史街道』十二月号掲載の拙稿「天下一の繁栄を極めた海の商都・堺、その夢の証」も参考にした。この原稿は、『歴史街道』編集部副編集長川上達史氏に上手にまとめていただいた。

 第三節が昨年十一月十日になんばパークスで行なった南海沿線文化セミナー「天下人と堺」である。

 本稿は、『堺市博物館研究報告』三三号(二〇一四年三月発行予定)に掲載予定の原稿を、インターネット用に改めたものである。

    (よしだゆたか・堺市博物館学芸員、二〇一四年一月二十六日制作)




  史跡都市堺の歴史観光‐夏の陣・茶の湯・天下人‐

私の知り合いに、その知り合いから送られた記事をお借りして、以下に貼り付けさせてもらいます。


  第三節、天下人・三宗匠と自由商業都市堺

信長・秀吉・家康の三天下人と堺との関係は、通説によれば次のとおりである。まず織田信長は、上洛して三好三人衆などを追放し、会合衆を屈服させ、大津・草津とともに堺を直轄地として支配した。

次に豊臣秀吉はさらに、堺の堀(環濠)を埋めて自由都市堺の防御力を奪い、支配を強化した。さらに徳川家康も、堺奉行をおいて堺を天領(江戸幕府領)として支配した。

しかし、この通説にはかなり疑問がある。このことについてまず考えたい。


 (一)、織田信長と産業都市堺
 信長(一五三四~八二年)は、尾張の古渡城主織田信秀の嫡男で、那古野城(または勝幡城)で生まれた。江戸幕府や江戸時代の始まりを考えるなら、秀吉や家康も重要人物であるが、天下人や安土桃山時代について考えるなら信長を中心に考えるべきであろう。秀吉の実施したことには、信長の受け売りが多い。特に堺のまちとの関わりは、信長を重点にするのが分かりやすい。

信長の事績として一般に有名なのは、大量の鉄砲を使って戦国乱世をほぼ統一したこと、および楽市楽座などの商工業振興策の二つであろう。この二つのことを前提に、信長と堺について考えてみよう。

 信長は、戦記物などの記述によるが、上洛するとすぐに堺に多額の矢銭(二万貫)を課し、大津・草津とともに直轄地とし、初めて堺奉行を置いたとされる。これによって、自由都市だった堺は自由を失ったとされる。

 たとえばある教科書では、「信長は、自治都市として繁栄を誇った堺を武力で屈伏させて直轄領とするなどして、畿内の高い経済力を自分のものとし、また安土の城下町に楽市令を出して、商工業者に自由な営業活動を認めるなど、新しい都市政策を打ち出していった」と書かれている。 

 しかし、これには疑問がある。まず、矢銭二万貫を堺に課した件である。永禄十一年(一五六八)九月に信長は、足利義昭を連れて上洛し、堺に軍資金を課したが、能登(野遠)屋・紅(紅粉)屋などの会合衆はこれを拒否した。しかし、信長はすぐには兵を動かさなかった。

永禄十二年正月、三好三人衆は堺を出て、京都の足利義昭を攻めたが、信長方に敗退した。三好に味方したため堺を信長が攻めると伝えられ、会合衆も二万貫を納めて陳謝したのである。

 この時に堺だけでなく本願寺や法隆寺、上京、尼崎なども軍資金を要求されている。また、信長以前に細川氏や畠山氏などの武将にも、堺はこういった金銭を要求されたことがあり、信長が特に堺に対してだけ高圧的だった訳ではない。

 ただ、会合衆にとって時代の流れを読みきれない部分があったとすれば、信長が上洛するわずか半年ほど前、三人衆など阿波三好氏が推す足利義栄が十四代将軍に任じられたことである。いわゆる堺幕府以来の悲願である阿波の細川・三好系の将軍が誕生した訳であるが、松永久秀など三好方の内紛、信長の上洛、義栄自身の病気などによって、わずか半年余りで十五代将軍義昭に交代し義栄は病没するのである。

信長は、将軍になれた義昭から、副将軍や管領への就任を要請されたが拒否し、堺・大津・草津に代官を置くことだけを要求したという。「此の度打随へられたる国々、近江、山城、摂津、和泉、河内、已上五箇国なれども、[信長は家臣に]悉く割き与へられ、僅かに和泉の堺、江州の大津、草津、加様の所のみ代官をば付けられけり」(小瀬甫庵『信長記』上、古典文庫版)。

ここで信長が堺に注目したのは、貿易港としての経済力ととともに、信長が天下統一のために欲しかった大量の鉄砲を作りだす製造業の力であっただろう。堺は、経済都市であるとともに産業都市でもあった。

信長の堺代官は、「清洲の町人」(信長公記)であった松井友閑と推定されている。町人出身の友閑を堺代官にしたのは、堺の豪商を取り込み、その経済力を利用するためであろう。

矢銭要求もそうであるが、このことが堺の自治を潰すことを目的としていたとは思えない。商業都市としての発展を、信長も推進していた。そのためには、商人による一定の自治は必要である。堺を、武家の城下町とするつもりはなかったようである。松井友閑は、堺商人の今井宗久と共同で、堺代官を務めたらしい。

 信長は、上洛以前に堺に来ていることが『信長公記』に書かれている。信長の経済政策は、堺における都市運営を参考にしたのではないかと思われる。

 通説によれば、堺では自由を奪い、岐阜や安土では楽市楽座によって商人を集めたという。とすれば、堺は信長にとって敵国の都市ということになるが、ではなぜ直轄地として代官を置いたのか。

堺(旧市域)の北部において、現在でも大寺院として知られる妙國寺(日蓮宗)には、国指定天然記念物の大きな蘇鉄がある。伝承によれば、この蘇鉄が信長によって堺から安土に持っていかれたが、堺に帰りたいと泣くので戻したという。この話が載っているのは、江戸時代の真説『太閤記』などが古いようである。開山(初代住職)の日珖は、天正七年(一五七九)の信長による「安土宗論」で浄土宗側に負けさせられている。

 すなわちこの伝承は、比叡山や本願寺と対立したことにみられるように、信長による寺家(じけ)支配の抑制といったことを反映したものではないのだろうか。しかし、堺のまち全体を対象とした抑圧とは異なる。

 もう一点、信長は自由都市堺の自由を奪って直轄地にしたというが、自由都市といっても封建時代であり自由市民都市でないことは、本誌などで何度か指摘したところである。堺は自由商業都市であり、だから、商売の自由を奪えば信長の求めた商品も入手できなくなる。敵対する三好三人衆との取引が多く三好に味方した堺の会合衆の勢力を弱め、今井宗久などを重用したのであろう。



 (二)、天下三宗匠の今井宗久・津田宗及

今井宗久(一五二〇~九三年)は、天下三宗匠のうちでも最も信長と親密な関係にあった。その始まりは、永禄十一年(一五六八)、信長に「松島の茶壺」「紹鴎茄子の茶入」を献上したあたりからであろう。『信長記』(古典文庫上巻、九二頁)では、「松島と云ふ茶壷、詔鴎が菓子の画など」とある。

信長の矢銭要求では、野遠屋らの三好派と今井宗久らの信長派に分かれたのだが、それは結果論的な見方でもあって、このころはまだ三好氏が堺を支配(経済都市を保護)しており、大半の商人は三好派であったはずである。商人はリスク分散していただろうが、三好との商売付き合いが堺ではそのころ主だった。

 ところが、近江(または大和今井町)出身で新興の宗久は、三好との関係が他の商人より薄かったと思われる。宗久が、三好よりも信長が優勢という卓見があり、信長側に乗ったという訳ではないだろう。

その後、信長の堺方面の代官として二千石を得て、子孫は江戸で旗本になり千石を得た。堺にも、江戸時代は今井屋敷があった。

松井友閑が信長時代に堺代官になったという記事は、どこにも存在しない。ただ、秀吉時代初期に「堺政所」として登場するので、信長時代から継続したと推測されている。谷口克広氏は、「実際の政務はほとんど宗久任せで、宗久の監督役のような存在だったのではなかろうか」と推測されている(同氏『信長の政略』学研パブリッシング、二〇一三年、二六九頁)。

信長の命で、生野銀山(兵庫県朝来市)経営に関わったり、代官領に吹屋(鍛冶屋)を集め、鉄砲や火薬製造をしたとも通説では言われるが、「吹屋」は鋳物師だから河内鋳物師などを使っての大砲製造であろうと、本誌前号の拙稿「堺鍛冶による世界最大の火縄銃と大砲‐特異で高度な日本技術‐」では推定した。艦載用のフランキ砲などであろう。

 ただし、皮屋(革屋)として武具も製造した舅の武野紹鴎との関係なども含め、それらを示す直接的な史料が少ないので断定はできない。

信長による茶の湯御政道や名物狩など、信長が茶の湯を特別なものとするのを手伝っている。武野紹鴎の娘婿として、名物を六十種ほどももつ豪商であった紹鴎が、京都などで精力的に収集した茶道具を譲りうけた。今井宗久の補助によって、信長・秀吉による茶の湯が、武家(支配階級)の文化として確立していくのである。

 次に、同じく天下三宗匠の一人である津田(天王寺屋)宗及であるが、宗及の嫡男である宗凡に跡取りがなく、天王寺屋本家は廃絶したという。そこで茶器などの数寄道具は、宗凡の弟である大徳寺龍光院の江月宗玩のもとに渡った。茶会記として著名な「天王寺屋会記」も龍光院にあったものを小田原城主稲葉氏が譲り受け、明治になって稲葉家から養子に行った松浦氏に贈られたという(『茶道古典全集』第七巻、淡交社、一九五六年、四三八頁。永島福太郎『中世文化人の記録‐茶会記の世界‐』淡交社、一九七二年、二一一頁)。宗達・宗及父子は、紹鴎同様に名物茶道具を収集、あるいは記録した。

 大徳寺に入った江月宗玩は、沢庵宗彭などとともに活躍した。茶人では、小堀遠州や千宗旦と親しかった。

 宗及の娘永薫は、御殿医として知られる半井(なからい)氏に嫁いだ。堺と住吉の間にある安立(安立町)は、半井一族である半井安立軒が住んだことに由来する地名という。

 天王寺屋津田家は、本家以外の一族についても、江月や姻戚の半井以外にはほとんど知られていない。意外に武野家、千(田中)家、今井家などと大同小異の新興商人であったのだろうか。



 (三)、豊臣秀吉と貿易港堺

 秀吉(一五三七~九八年)は、尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれ、天下人となった。秀吉の政策は、初めのころ信長を引き継いだものが多かったが、茶の湯についても初め、信長の茶の湯御政道の延長であった。

堺代官(政所)は、信長時代の松井友閑から、石田三成、大谷吉継、石田正澄などに替わるが、秀吉政権の中枢部から堺代官が選ばれている。

 信長時代のもう一人の堺代官今井宗久に替わったのは、小西隆佐であった。後にキリシタン大名となるアゴスチイノ行長の父親である。

 堺町人で、薬種商・貿易商として有力な小西一族から選んだのであろう。石田三成と小西行長の関係は、関ヶ原の戦いで死ぬまで続いている。

 小西隆佐・行長は、同じキリシタンとして高山右近と関係があり、右近は千利休の茶の湯での弟子として関係があった。しかし、小西一族と利休との直接的なつながりはほとんどみえない。堺における利休と三成との関係を示す史料もない。

 今井宗久に替わる堺代官としては、千利休が務めてもおかしくなかったが、石田三成が堺代官から秀吉政権の中枢部に移っていったように、利休もまた信長の茶頭から豊臣秀長と組んで秀吉政権の中枢部に位置を占めた。

天正十四年(一五八六)、秀吉自ら来堺して堺南北の堀を埋めている。前述のとおり、これは秀吉が堺の自由・自治を弱めるためとする説が通説である。

しかし、堺が秀吉に逆らう理由は少ない。秀吉の主な都市政策は、経済力の強化である。秀吉は初め、大坂城から四天王寺、住吉大社を経て堺まで、南北につなごうとしたともいう。堺の環濠を埋めたのも、都市の範囲を広げて商売を発展させるためであろう。信長以来の商工業都市の振興策である。

翌天正十五年四月、九州平定のために出陣した秀吉は、イエズス会日本管区長やポルトガル船管理人に八代で会い、「定期船が堺付近の適当な港に来ることを強く希望」した。日本管区長は、「定期船の水先案内人が平戸から先の航路を調べ、その結果、航海に十分な水深もあり、船が入り得る港があることが判れば、ポルトガル人らは喜んで奉仕するであろう」と答えている(松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』第一巻、中央公論社、一九七七年、二九三頁)。

しかしこれは、直後の六月、秀吉がキリスト教宣教師追放令を出したことや、瀬戸内海などの航行が慣れない大型船では難しかったことなどで実現しなかった。

 秀吉によって大坂の城下町が整備され始めると、伏見や平野郷からも町人が大坂へ移住してきた。通説では、秀吉による強制移住とされる。しかし、それを証明する確実な史料はないのではないか。堺の場合も、新たな商売の場を求めて、大坂へ移住したものであろう。

 本誌に以前記したが、江戸時代がそうだが、近江商人や伊勢商人が大坂や江戸で商売をしようと思っても、地元領主の許可を得て、妻子を残して商売に行かなければならなかったが、堺は大坂や江戸と同じ天領(幕府領)であるので、商人の移動は比較的容易であったと思われる。安土桃山時代に全国から堺に集まってきた大勢の商人たちが、江戸時代にほとんどいなくなってしまったのは、そのためであろう。

 もちろん、会合衆などの室町時代から続く伝統的な商人は、それに比べれば江戸時代以降も堺を離れることは少なかったようである。

私の知り合いに、その知り合いから送られた記事をお借りして、以下に貼り付けさせてもらいます。



史跡都市堺の歴史観光‐夏の陣・茶の湯・天下人‐


 第二節、金銀都市堺における茶の湯

 堺で生まれ育った千利休であるが、簡単な手紙類を除いて彼自身が語った史料はほとんどなく、利休と堺との関係を示す史料もない。

 イエズス会を代表する宣教師フランシスコ・ザビエルが、日本の金銀の大部分が集まる港町と記した堺で、対照的ともいえるわび茶(侘数寄)が利休によってなぜ大成されたのだろうか。



(一)、倭寇・火縄銃とバブル経済都市堺

 一五四三年ころ、倭寇の船(実は中国船)に乗ったポルトガル人が、鉄砲(火縄銃)を種子島に伝えた。種子島の領主がそれを購入し、地元の鍛冶屋に複製を作らせている。

 鉄砲は、日本の銀を求めて中国方面からそのころ日本各地にやってきた倭寇などによって、種子島だけでなく日本各地に伝来したかもしれない。しかし、種子島で短期間で複製品が作られ、その技術を応用して堺で大量生産がおこなわれたという普及過程こそが、世界的にも例のないことであった。日本史上にとって重要なのは、鉄砲伝来ではなく鉄砲複製・大量生産である(拙稿「宗久茶屋と鉄砲伝来‐歴史研究における伝説と通説‐」『堺市博物館報』二九号)。

 石見銀山など日本でこの頃から大量に出土・精製されるようになった銀を求めて、中国から倭寇やポルトガル人がやってくるようになる。倭寇は、堺の貿易商人とも関係していたようである。

 種子島は堺商人の貿易ルート上にあったため、堺商人が種子島銃をすぐ堺に持ち帰り、信長の天下統一過程の頃には堺で大量に作れるようになっていた。ヨーロッパ以外で鉄砲を作れたのは日本だけであり、しかも大量生産であった。こうして堺で、鉄砲バブルが始まる。

 また、鉄砲や大砲に使われた火薬の主な原料であった硝石は、当時は東南アジア方面からの輸入に頼っていた。堺の貿易商人が、それらの輸入にも携わっていたと思われる。海の神様、船の神様である住吉神と強く結びついてきたことが物語るように、堺は古くから貿易商人の町として発展してきた。

 一五四九年、鹿児島に上陸したザビエルは、そこからマラッカ(ポルトガル領、現マレーシア)の長官に宛てた手紙のなかで、日本の主要な港である堺に商館を設けること、なぜなら堺は日本で最も富裕な町で、全国の金銀の大部分が集まる所だと述べている。鹿児島は、種子島とともに堺商人が琉球を経て中国、東南アジアと貿易する商圏であった。

「日本の最大の港都であり、京都から二日ばかりの旅程を距ててゐるだけの堺には、神の思召に従つて、物質的な利益の非常に大なるポルトガル商館を開くことができる」「この堺の港は、日本中で、最も殷賑を極めた富裕な町であって、全国の金銀の大部分が集まる所です」(『聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄』下巻、岩波文庫、一九四九年、八五頁)。

 堺は、なぜそれほどまでに繁栄する都市となったのだろうか。それは海と船を守護する住吉神の大社との繋がりの他に、堺が海のネットワークを束ねる地だったからである。中世においては、瀬戸内海が物流のメインルートだったが、もう一方で紀伊から土佐沖を通って薩摩へ渡り、さらには琉球にまで至るルートもあった。古代からの熊野水軍や中世倭寇の活動地域でもある。最初の遣明船も、この土佐沖ルートで堺に入港しており、種子島もこのルート上にある。両方のルートにアクセスできることは、堺の非常な強みだった。

 さらに、古代から陸路での大和との結びつきもあった。難波と大和を結ぶ大道として、推古天皇二十一年(六一三)に長尾・竹内街道などが整備されて、昨年で一四〇〇年を迎えた。難波と結ぶのがメインルートであったと思われるが、途中の住吉大社・堺も大きく影響を受けたと考える。



(二)、堺の新興商人による新しい茶の湯文化

堺幕府(一五二七~三二年)の後、三好元長の息子・長慶が再び堺を拠点に、近畿一円に覇を唱えた。三好長慶は「戦国初の天下人」ともいえる。信長の前であり、 長慶・信長・秀吉・家康となる。

 ザビエルが、堺は金銀の大部分が集まる所と言ったように、安土桃山時代には、この莫大な富を背景に、金融都市堺で茶の湯などの文化が大きく花開いた。

茶道検定の公式テキストには、「武野紹鴎が茶の湯を主導した天文年間(一五三二~五五)からその直後は、経済力のある茶人が主流をなしたため、ぜいたくな料理がふるまわれ、料理の上には金銀の箔が散らされ、器にも金銀の装飾がほどこされるといった豪華な仕立てもあった。漆器と素焼の土器(かわらけ)が主たる器で、土器には金箔を貼った濃手(だみで)がほどこされた」と記されている(財団法人今日庵茶道資料館監修『茶道文化検定公式テキスト一級・二級用』淡交社、二〇一二年・五版、一二七頁・矢部良明執筆部分)。

天正七年(一五七九)に来日したイエズス会東インド管区巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、当時の日本人が、まるで宝石であるかのように茶道具を珍重し、西洋人から見れば「鳥籠に入れて鳥に水を与えること以外には何の役にも立たないような」茶入れ一個が、銀九千両(一万四千ドゥカード)で売買されていたと記録している(ヴァリニャーノ『日本巡察記』東洋文庫二二九、一九七三年、二三頁)。キリシタン大名大友宗麟所持の茶入であるが、その金額はイエズス会日本支部の一年間の経費を上回るものであった。

ちなみに同書(二四頁)によれば、堺の日比屋了珪の鉄製五徳蓋置は九百両であった。了珪は、堺商人のなかで上位の豪商ではなかった。

鉄砲製造や火薬(硝石)輸入によるバブル経済であったが、豪商たちの手ごろな投機対象になったのは高級な貿易陶磁器や舶来の茶道具くらいしかなく、異常なほど高値になったのではないか。

熊倉功夫氏は、「茶道具はさまざまの品物のなかで、最も換金性の高いものの一つであろう。その換金性こそ、堺の町衆が一番大事にした道具の性格であった」とされる(同氏『茶の湯の歴史 千利休まで』朝日選書四〇四、一九九〇年、一六五頁)。

堺は大坂夏の陣で大きな戦火に見舞われ、大量に持ち出して逃げる間もなく、茶器などの陶磁器が地中に埋まってしまった。現在、千地点以上が調査されており、「堺環濠都市遺跡」と呼ばれる日本で最も大規模な中近世都市遺跡になっている。秀吉・家康時代の後半、埋まっている遺物が使われていた慶長期(一五九六~一六一五年)の堺が、金銀あふれる黄金の日々を迎えていたことの証である。

誤解されがちなのが、武野紹鴎や今井宗久らが伝統的な「会合衆」の一員とされることである。会合衆は、えごうしゅうと読まれたりもしたが、かいごうしゅうが正しい(拙稿「堺中世の会合と自由」『堺市博物館報』一七号、七頁)。堺の「会合衆」の史料的な初出は、一四八〇年代に書かれた『蔗軒日録』であるが、当時すでに湯川(池永)や三宅、野遠屋(阿佐井野)など地元の有力商人が活躍している。

一方、武野紹鴎は父の代ころから堺で商売を始め、鹿革など武具を商って戦国時代に一気に巨富を得た人物であり、その娘婿の今井宗久は大和国、あるいは近江国の出身、いわば新興財閥といえる。だからこそ過去のしがらみも少なく、信長や秀吉と結びつきやすかったのであろう。

武野紹鴎や今井宗久は、新興財閥であったが故に、茶の湯も室町将軍家など以来の伝統に囚われることがなかったのではないか。前述のとおり、津田(天王寺屋)宗及も、湯川や三宅に比べれば新興商人であっただろう。永島福太郎氏も、堺の「都市自治を誇り、会合衆をリードしていたのは旧豪族の一部だった」とされる(同氏『中世文化人の記録‐茶会記の世界‐』淡交社、一九七二年、五七頁)。

千利休も、確定ではないが、同じく伝統的な商人ではなかったと思う。不審菴蔵「緑苔墨跡」によれば、若いころは豪商でもなかった(神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』角川書店、二〇〇五年、一〇八頁)。それ故に、このような堺の革新的な部分と強く結びついていたのではないか。堺の町と自らの新しい感性を信じて、わび茶という新しい茶の湯を究めたのが利休かもしれない。

今井宗久も津田宗及も千利休も、「天王寺屋茶会記」などによれば茶の湯で三好一族と関わっていたことも分かっている(天野忠幸「戦国期における三好氏の堺支配をめぐって」『堺市博物館報』三〇号、二〇一一年、一二五頁)。大徳寺聚光院において、千利休の墓は三好長慶の隣にある。

しかし、三好一族と会合衆が旧守派、信長・秀吉や天下三宗匠は新興勢力と片付けられるほど単純ではない。当時の堺のまちの目まぐるしい変転のなかで、どのようにして新しい茶の湯が生まれたのか、まだまだ考えないといけないことは多い。



(三)、堺の豪商と武家茶の湯

 茶の湯は武家文化であろうか町衆(町人)文化であろうか。安土桃山時代の堺においても、まだ町衆文化にまでなっていなかったように思う。室町から安土桃山時代までの町衆文化といえば、共同体ごとに行なわれた年中行事や人生儀礼、民俗芸能のようなものが主であった。長く日本文化の中心的な担い手であった公家の圧倒的な影響力のなかにあって、一般の武家や町衆まで広く行なえた文化といえば地下(じげ)の連歌くらいのものであっただろう。

 茶の湯も、闘茶や茶寄合くらいであった。茶屋や茶店も、庶民にまで広がるのは江戸時代になってからであろう。堺の茶の湯は豪商文化であり、上層武家の御用商人文化であり、三宗匠は信長や秀吉の茶頭であり、江戸時代の三千家も加賀前田家や紀州徳川家に仕官している。

 禅宗は武家による信仰が多く(公家は少ない)、武家文化としての茶の湯は大徳寺などの禅宗と結びつきやすかった(『京都の歴史』第三巻四六一頁)。

堺のまちなどでこの時代、茶の湯が盛んに行なわれていたと一般に言われるが、豪商の主な取引先は武家であった。武家の求めに応じて茶道具を販売したり茶会を催すだけでなく、茶会記に記されるように商人同士でも茶会が催された。しかしそれは、武家との商売のための勉強会であったりもした。商人が、儲けに結びつかないことを熱心にするのは例外的な場合だけであろう。商売としては、多くは武家が対象であったはずである。

村井康彦氏の最近の論考「茶に生きた人‐信長・秀吉・家康‐」でも、茶の湯の中心は武家であったことが述べられている(『茶道雑誌』平成二十六年一月号)。

 千利休は、師の一人(あるいは師の師)である武野紹鴎たち堺の豪商が行なった金銀あふれた高級な茶の湯に反発してわび茶にのめり込んだのか、単に紹鴎たちとは異なる茶の湯をすることにこだわっただけなのだろうか。あるいは、秀吉の力を借りて庶民にまで幅広く茶の湯を広めたかったのか、秀吉政権のなかで茶頭としてただ生きただけなのだろうか。

 町人に多い法華宗よりも、武家に多い禅宗との関係が深いのも、茶の湯が武家のものだからだろうが、秀吉政権において一時期、異父弟の秀長に次ぐナンバースリーであり、最後は武士のように切腹した利休も、その点ではまさに武士であった。

江戸時代には煎茶が、黄檗宗僧侶などによって中国から取り入れられ、文人に広まり、町人も行なうようになり、広く庶民まで簡単なお茶を喫するようになる。

一方、抹茶を使った茶の湯は、上層の武家のなかで生き続けた。北山文化、東山文化に代表される足利将軍家以来の武家の茶であり、信長による茶の湯御政道、秀吉の北野大茶会などによる広がり、そして利休によって完成に向かった日本的なわび茶など、当時の日本を代表する上層武家文化の一つであった。

そういった桃山から江戸時代にかけて続けられてきた茶の湯セレモニーは、能狂言や歌舞伎、文楽といった芸能もそうであるが、さらに上層の日本文化を今に伝えるタイムカプセルの役割を果たしたのではないか。

そのなかに込められた日本の伝統的な美意識の一端は、昨年末から公開の映画「利休にたずねよ」でも大きく取り上げられ、モントリオール(カナダ)で映画賞をとるなど外国でもその日本的な美に対する理解を得たようである。最近、世界的(特に欧米)に日本文化が人気であるが、その一環であろう。

 これまでの日本文化論では、公家文化や町衆(町人)文化に比べて武家文化が低くみられすぎていたのではないだろうか。



(四)、貿易港堺と利休のわび茶

堺のまちにおける鉄砲バブルのなかで、紹鴎などによる金銀を散りばめた華やかな茶の湯が行なわれる一方、その対極にあるらしい利休のわび茶が行なわれたのではないか。

 利休のわび茶とは、何なのであろう。利休自身はそれについて語っていないので、推測するしかない。利休百回忌に向けて『南方録』などが作られていくが、そこに加えられた理想的・意図的な利休像、そのなかから、あるいはそれを選り分けて真実を探し出さないといけない。

永島福太郎氏が『中世文化人の記録‐茶会記の世界‐』(淡交社、一九七二年)の冒頭に、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。」という松尾芭蕉の紀行文を引用している。貞享四年(一六八七)に畿内西国に向かった時の「笈の小文」の序文の一節である。これも利休百回忌に近い時代であるが、芭蕉はこれらを「風雅」と呼んだ。

 桑田忠親氏も『世阿弥と利休』(至文堂、一九六六年)の「はしがき」で、この「笈の小文」を引用しておられる。ただ、たとえば「和歌の西行と絵の雪舟には、誰しも異議があろう。西行は芭蕉型の歌僧ではあるが、歌神と崇められた人麿や定家と比べると、それ以上に高く買われない」とし、「日本第一流の芸術家」について芭蕉独特の見解を述べたものとされたが、それは勘違いであろう。

日本文化の一方の旗手が、柿本人麻呂ではなく西行であり、狩野永徳や喜多川歌麿ではなく雪舟でなければならないと、芭蕉は考えたのである。そして「利休が茶」である。

 日本文化は、舶来文化と国風文化の二つが絡み合って成り立っている。舶来文化は、明治以前は中国など主に東洋から、明治以降は欧米など主に西洋から輸入されており、国風文化との融合文化もあった。芭蕉のいう風雅は、どちらかといえば国風文化に近い。

 例えば堺においては、「与謝野晶子の和歌、高三隆達の小歌、土佐光起の絵、千利休の茶」ということになろうか。これらの先人も、どちらかといえば地味な国風文化を育てた人々であった。ただ、それぞれの時代の国際性を反映した国風文化でもあったのは、堺という町の気風を多かれ少なかれ反映していたであろう。堺文化の特徴は、海に向かって開かれた国風文化であった。

 茶の湯は唐物趣味が強く、どちらかといえば舶来文化であるが、そのなかで利休のわび茶は国風文化寄りである。明治以降の我々現代人には、中国や朝鮮文化などは大半が国風文化と融合しており、欧米からの舶来文化とはやや異なるが、舶来文化であることに変わりない。大徳寺や南宗寺など、茶の湯と関係深い仏教も、全てインド・中国からの舶来である。

 日本文化の中心は舶来文化の方であろう。華やかな桃山文化にも、中国文化の影響がみられる。国風文化や民族文化、国民文化といったものは、地味な存在であり副次文化である。

今風にいえば、サブカルチュアであろう。男性中心の武家文化であった茶の湯が、今では裏千家などの努力によって広く女性に支持されているのも、どこかサブカルチュア的な感じがする。

村田珠光の有名な遺文「心の文」(古市播磨宛一紙)にある「和漢の境をまぎらかす」ことも、唐物と和物の関係を述べたものであろう。熊倉功夫氏は、珠光のこの言葉の背景に、五山の禅僧たちとの「和漢連句」という文芸運動があり、永島福太郎氏は『茶道文化論集』で和漢兼帯が中世文化の主張であったとしたという(熊倉『茶の湯の歴史 千利休まで』一〇九頁)。


 

 私の知り合いに、その知り合いから送られた記事をお借りして、以下に貼り付けさせてもらいます。




史跡都市堺の歴史観光‐夏の陣・茶の湯・天下人‐

        (堺市博物館研究報告33号電子速報版1 二〇一四年一月二十六日)



織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が訪れ、武野紹鴎や千利休、今井宗久、津田宗及などの茶人が活躍した堺の町は、利休自刃二十四年後、慶長二十年(一六一五)の大坂夏の陣の兵火で、ほぼ全域が焼失してしまった。さらに、戦後復興によって碁盤目状に整備されたことで、町並の方角すら変わり、紹鴎や利休の屋敷跡さえ分からなくなってしまった。

しかし、その歴史の跡は、地中にしっかりと残っていることが、三十年余り前から徐々に明らかになっている。今では発掘調査など千地点を超える考古学的調査を行なってきた国内最大にして、中近世の都市遺跡としては世界的にみても最大ではないかと考えられる「堺環濠都市遺跡」がある。

天下人である信長や秀吉は、自由都市堺の自由を奪った。これが教科書にも載っている通説であるが、それには疑問がある。

その時代の堺は、フランシスコ・ザビエルが言ったように、全国の金銀の大部分が集まる所であった。豪商である武野紹鴎が名物茶器を使い、金銀をちりばめた茶会を開いた華やかな金銀都市堺に、なぜ千利休のわび茶が生まれ、今に至るまでその美意識が尊ばれているのだろうか。

本稿では、中近世の金銀都市堺について、大坂夏の陣、千利休の茶の湯、堺と天下人の三節に分けて、以上のような視点で改めて考えてみたい。



第一節、大坂夏の陣と史跡都市堺

 堺市は、伝統技法による包丁製造だけでなく、臨海部のコンビナートなども有する現役の産業都市であるが、一方で長い歴史を有する古都でもある。そこにいろんなものが揃っていることが、却って堺のイメージを曖昧にするという欠点も抱えている。

そうした堺における歴史観光の在り様について、史跡観光という視点で、

以下に少し試案的なものを考えてみたい。



(一)、堺旧市街地の歴史観光の特徴

安政二年(一八五五)に新潟から伊勢を経て京・大坂をめぐった清河八郎は、その旅日記『西遊草』に、次のように堺について記している。

「堺は古しへ豪富の地なるを、坂都に城ありてよりしだひに衰微いたし、世に三衰微といふ。堺及奈良・鎌倉なり」(小山勝一郎校注、岩波文庫、一九九三年、三四一頁)。

 平成七年(一九九五)に開催した特別展「堺と三都」の展覧会図録にもすでに書いたことではあるが(九四頁)、堺・奈良・鎌倉の三衰微都市のうち、奈良は平城京のあった首都であり、鎌倉も武家の都であった。奈良時代、鎌倉時代という時代名にもなっている。そして、古都である。

 一方、堺には堺時代という日本史上の時代名はない。しかし、堺公方足利義維が堺幕府を置き、ザビエルが金銀の大部分が集まる港町と言い、信長・秀吉・家康の天下人が大貿易都市として注目したまちであった。細川、三好、織田、豊臣、それぞれの政権の財政を支えた経済都市であり、豪商の集住する商業都市であった。

 現代の日本の都市自治体は、多かれ少なかれ自都市のもつ魅力をアピールすることを重視する。堺の場合は、主に堺がこれまで伝えてきた歴史文化である。寺院都市・奈良、武家都市・鎌倉、商人都市・堺として、日本史を彩る古都になったはずである。

 しかしそれは、第二次世界大戦の空襲によって、この地上からは消えてしまったものが多い。特に堺の場合、狭い中心部に豪商の屋敷などが密集しており、そこが焼けてしまったのである。だから、堺奉行所跡とか糸割符会所跡など標柱石や案内板によって、かつてそこにあった歴史を示す必要がある。

 ところが、堺の旧市街地は大きく二回焼けているが、もう一回が慶長二十年(一六一五)の大坂夏の陣の兵火によるものである。このことが、標柱石の設置を難しくしている。

 世界大戦の戦火の場合、焼失する以前の家の場所などは分かっている。戦後復興で、一部の中心道路などが拡幅されたが、町並みそのものはほとんど

変わっていない。たとえば、与謝野晶子の生家は大道(だいどう・紀州街道)の西側にあったが、大道が西側に拡幅されたため、晶子生家は拡幅された道路の下になってしまい、生家跡に作られた歌碑は、晶子生家の西側、すなわち家の裏口付近に建てられているといったことはあるが、街の区画や町並みの方向は変わっていないので、江戸時代の地図と比べることが比較的容易である。

 これに対して、大坂夏の陣後の復興では、町(市街地)の西側を一部残して、大半が町並みの方角さえ変わる大復興事業が行なわれ、それまでの自然発生的でバラバラな町並み方位が、碁盤目状の整然としたものにされたのはいいのだが、千利休や武野紹鴎の屋敷など、陣前に建てられ焼失したものがかつてどこにあったのか、正確な位置がほとんど分からなくなってしまったのである。このことについては、本誌三一号の拙稿「堺幕府はどこにあったのか‐中世都市の空間構造‐」の後半部で、新旧の復元地図で比較できるようにしたので、合わせて参照願いたい。

 本稿冒頭に述べたように、今では堺環濠都市遺跡の調査が進んでおり、町の全体構造の一部や、出土した様々な遺物の調査は進んでいるが、調査地区が千地点を超えたこともあるのか、それらを網羅した研究はあまり進んでおらず、それを元にした分かりやすい一般概説書も少ない(仁木宏「堺と中世都市‐『黄金の日日』遥か‐」『堺研究』三三号、堺市立中央図書館、二〇一一年)。私自身も含め、批判され反省すべきところである。

 言い訳ではあるが例えば、戦国から安土桃山時代において堺と並ぶ貿易都市として知られた博多(福岡市)と比べた時、堺には歴史学科のある大学がほとんどないが、福岡市には九州大学を初めとしてあり、関係する研究者や設備も多い。研究拠点があり、人材がいるのである。



 (二)、大坂夏の陣前後の大変化と史跡

 大正末から昭和の初めに京都帝国大学を中心に作られた『堺市史』の頃は、都市考古学という学問はほとんどなかったため、夏の陣の前後での町並の大きな変化があまり分かっていなかったようである。大半が昭和三十年代までに建てられた標柱石も、そうしたあいまいな推定地に建てられている。

 標柱石の現状については、『堺の標柱石第一集』(堺ボランティアの会、一九七八年)や、湯川儀三郎編『郷土堺標柱石一覧』(一九八一年、私家版)、堺観光ボランティア協会企画編集『堺観光情報ファイル』(おいでよ堺二十一実行委員会、二〇〇七年)などに、大要が記されている。

 これらを見る限り、堺の旧市内において、江戸時代から明治時代のものは十基以上はありそうな道標を除けば数少なく(十基以下)、大半が大正時代のもの(約四十基)と昭和三十年代のもの(約四十五基)であり、加えて昭和戦前のもの(約十五基)がある。

 建物、施設、行事などが、大坂夏の陣の前後にどう変化しているのか、その区分案を以下に記す。

(1)夏の陣前後で場所が変わらない建物や行事

 例えば、住吉御旅所、ちりやたらり川・川尻、住吉祭(お祓い祭)、開口神社・念仏寺(室町期ころに御旅所から分かれて今の場所に移動か。中世以来念仏寺は変わっていないと『堺市史』七巻八〇九頁は記す)。

(2)夏の陣前後で場所が変わった建物や行事

 ①陣の前後の場所が分かるもの

 『堺市史・続編付図』Ⅲ、中世(一九七六年、堺市役所)に移動の前後が記されている二七寺院。ただし推定もある。これ以外の寺院のほとんどは、不明である。

 ②陣後の場所しか分からないもの

 寺町などに移動した寺院の多く。

(3)夏の陣前に無くなった建物や行事

 ①陣前に無くなったままのもの

 例えば、和泉守護所(環濠内かどうかも不明)、初期の堺奉行所。

 ②陣前に無くなったが、全部または一部復旧したもの

 標柱石だけを、場所を推定して建てたものがほとんど。例えば、武野紹鴎屋敷跡、千利休屋敷跡など。

中世末・織豊期の堀(環濠)など。ただし、堀跡は発掘で出土しているので場所などが判るが、遺構を保存できているものはない。

(4)夏の陣後にできた建物や行事

 堺旧港(それ以前、中世の港の正確な位置は不明であるし、別物と仮にしておく)、農人町、堀(土居川、ただし大坂夏の陣以前のものについては部分的にしか判明していないのと、同じものが陣前後に移動したとするか別物とするか判断が難しいが、難しいものは別物とする方が扱いやすいだろう)、内川

(5)その他、不明な建物や行事

 以上であるが、標柱石において問題となるのは、現状を説明するために建てられたものではなく、以前あった屋敷地を推定して建てられたものである。

例えば(2)では、大半の寺院が陣前後に移動しているのであるが、陣前の所在地を推定して建てられた標柱石はほとんどない。

しかし(3)②の場合、大半は町並みの方角改変後の推定地に標柱石が建てられている。これらの多くは、堺環濠都市遺跡の発掘が始まる昭和五十年代以前に建てられたものであり、そこでの調査成果を反映したものではなく、現代のような科学的な見地から建てられたものは少ない。いや現代といえども、推定でしか建てようがないものも多い。

方角改変後の推定地について正確を期す場合は、「伝」あるいは夏の陣後「比定地」「推定地」といった名称を付記するのが望ましいだろう。

これらの中には、大正十二年に堺市が建てた「千利休宅址」の標柱石があり、そこには、「椿井現存」とも書かれており、大きな問題となっていることは周知のところである。

例えばザビエル公園についても、その付近が日比屋了珪宅であったのか学術的には確定できないだけでなく、そもそも了珪宅にサビエルが宿泊しているのかすらも確定できていない(『ジョアン・ロドリーゲス日本教会史』下巻、大航海時代叢書Ⅹ、岩波書店、一九七〇年、四三五頁。『フロイス日本史』第三巻、中央公論社、一九七八年、二二~二四頁)。

いずれにしろ、かなりの標柱石が推定によるものである以上、今はそのことを理解しながら都市観光を進めていくしかない。また、堺という都市が、大坂夏の陣や第二次世界大戦で大きく焼失したとはいっても、史跡都市とし

てなお注目に値する都市であることは紛れもないところである。

 なお標柱石は最近ほとんど建てられず、それに代わって堺市などが、文字や写真などを使った解説がある史跡案内板や観光案内板を設置することが増えている。

ドイツのバイエルン州のフランクフルトやニュルンベルクなどの都市も、旧市街地が第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けたが、戦後かなりの時間をかけて町並みが復興、再建されているという。

「ブラタモリ」という番組が、NHKで二〇〇八年から一二年まで六〇回ほど放映された。タモリ(森田一義)氏が、古地図を手に東京の街並み変化の細部を実際に探索し、江戸の史跡の痕跡からその歴史を復元する番組で、興味深く見た。堺も同様に、史跡の痕跡から復元する努力も必要であろう。またそれを、堺の歴史観光にも応用できないであろうか(矢内一磨氏のご教示)。

旧市街地だけでなく、百舌鳥地域も古墳群のユネスコ世界遺産登録に向けた重要な地域である。陵墓もあり、単純に観光地という訳にはいかないが、それも重要な史跡であることに変わりはなく、やはり堺は史跡都市であろう。

夏の陣後の標柱石の位置が推定地であるのと同様、仁徳陵や履中陵に比定されている大仙古墳や上石津ミサンザイ古墳も、推定であって学術的には確定していないことは周知のとおりである。

旧市街地と百舌鳥地域とは時代も場所も違うが、それがたまたま同じ堺市内の比較的近くにあるとこれまで考えられてきた。しかし、そうではないと考える。戦前の『堺市史』を監修・執筆した三浦周行氏が、海岸部低地にある堺の歴史の始まりは、古墳が乗っている東方台地上から始まったと唱えたのであるが、それは違うという論考を本誌二三号に「堺のまちの歴史像‐名著堺市史から七五年‐」として書いた。

両地域の歴史は、ほぼ同時に始まったのであり、仁徳天皇の祖母である神功皇后がまつられている住吉大社を含めたこれらの地域は、一体不離の歴史を有してきた。それを合わせた歴史観光を展開できれば、この地域を中心に大きな魅力が生まれるのではないだろうか。


変温動物のように調子の差があるのか、別のことに気が行ったらそれまでのことを忘れてしまうのか、半年以上もブログを書いていないことに気付きました。

びっくり!