真の吾(まことのわれ)~本来の自分を生きる~ -6ページ目
今日は自己卑下の話をします。

「自分を愛する」の反対は「自分をいじめる」

「自己卑下」です。


「自分を愛する」と、

自分を甘やかしてしまうのではないか、

自分に厳しくならなくなってしまうのではないか、

そしてこれ以上成長しなくなってしまうのではないか、

という恐れから「自己卑下」から抜け出せない

という人が少なくないように思います。

実は私もその一人でした。

ですが、自分を愛すれば愛するほど、成長できるということを

今日はお伝えしたいと思います。



例えばイチロー選手。

おそらく、いや絶対に野球が大好きでしょう。

大好きな野球をもっと高めるために、

毎日毎日、フォームやコンディションをチェックして改善を図ります。



スポーツで言えば、しごく当たり前のように聞こえますが

これを「自分」に置き換えると話がおかしくなります。



自分を愛してしまったら、自分は成長できないのではないか。



野球を愛してしまったら、野球がうまくならないのではないか。



すごく、変ですよね。

変ですけど、自己卑下ってこれと一緒です。


自己卑下は「部分」を見せなくします。

つねに「部分⇒すべて」になります。


もし、野球でエラーしたら、

エラーした「部分」を考えます。

キャッチするグラブの角度とか、自分の体の動きとか、

そういった細かい「部分」について考えます。


自己卑下は自分がエラー(失敗)したら、

本当は「部分」を見なくてはいけないのに

どうしてか自分の「すべて」を否定します。



「バカバカ、自分のバカ!

 なんで自分はこんなにダメなんだ!

 なぜ、こんなダメな自分に生まれてきたのだろう!」



野球に置き換えると


「バカバカ、野球のバカ!

 なんで野球ってこんなにダメなスポーツなんだ!

 こんなダメで役に立たないスポーツ誰が考え出したんだ!」



これと一緒です。

これではエラーは無くなりません。


自己卑下は自分に厳しいようでいて、ちっとも厳しくない行為です。

自分の部分的な改善点(失敗の原因)を、

きちんと見定めることなく、原因を自分のすべて(全体)に転化することで

原因から目をそらせる行為です。



これでは成長は止まります。



かくいう私も、ある人に

「あなたは自己卑下ばかりしているけれども、それでは何にも起こらないよ」

と言われ、最初は意味が分からなかったのですが

いろいろ考えていくうちに、自己卑下が何も生み出さない行為なんだ、

と言うことに気がつきました。



自分だけではなく、他の人も未熟です。

自分はダメであの人は完璧だ、というのは錯覚です。




だから、自分だけがダメだなんて感じる必要は全くありません。

人はみな未熟であり、人はみな素晴らしい存在です。

自分の素晴らしさを矮小化させて、自分の未熟さを極大化するのは

本当に錯覚です。



ですから、できるだけ、自分を愛してみてください。

野球は好きになればなるほどうまくなるように

自分を愛せば愛するほど、

自分が何をしたいのかが分かってくるし、

自分をどうもっていくことが幸せにつながるのかが見えてきます。


ということで、たぶんまた続きを書きます。
昨日の続きです。


世の中の本にはたくさんためになることは書いてあるけど

じゃあ、それってどうやったらいいの?

って思うことがたくさんあります。


自分を好きになりましょう。

自分を受け入れましょう。

考え方を変えましょう。

他人と過去は変えられない、変えられるのは自分だけ、だから自分を変えましょう。


言ってることはわかるんだけど

それができないから、困ってるんだよって思いませんか。

それができていれば、苦労しないよって。


簡単に「自分を変えましょう」って言っちゃえる方は

そもそも、根がポジティブな人。

そういう人が、人生がうまく進んでいないように見える人を見ると

「他人は変えられないのよ、変えられるのは自分だけ。」

って説教臭いことを言ってしまう。

んなことはわかってんだよ!って思います。



自分を変えたくても、変えられない人の辛さが分からない。

ポジティブだけど人の気持ちが分からない無神経な人ですね。



ということで、前置きがながくなっちゃいましたが、(というかほとんど愚痴ですが)

「自分を愛する」はどうしたらいいのか、と言うことについて書きます。


いろいろこれについて話せば長くなるのですが

ひとまず、日記で表現できることだと

自分に対して「考える」から「感じる」にシフトするっていうのが

大切かな、と思います。


自分がよくやるのは前にも紹介しましたが

「肯定瞑想」というワークです。


やることは簡単。

①座って眼を閉じて、

②手をハートの部分に置きます。

③自分のいいところや、嬉しかった思い出を思い浮かべます。

④そして・・・


「長所を書き出す」とか

「嬉しかった思い出を思い出す」とか

そういうワークは割と多くの本で書かれているのですが、

これだと、「考える」の域を出ていません。


「考える」と、左脳が働き「分析」が始まります。

「分析」が始まると他人との「比較」が始まります。

昔から、他人と比較するのは不幸の始まり、というように

他人と自分を比較すると、「自分はダメである」という結論に至りかねません。

なぜなら、いつだって他人は自分よりも素晴らしく、価値のある人間に思えてしまうからです。


ですので、自分について考えたり、分析するのではなくて

本当に大切なのは


④その時に体が感じる熱や温度、感情や気持ち

 体の中に流れる「何か」を「感じる」ことです。


「思い出す」ことは1割くらい。

あとの9割は感じること、に集中します。

手と胸の間の温度を感じます。

集中と言っても、頑張らないで

ただ、体の感覚や気持ちの温かさに身をゆだねるだけでいいのです。


実は僕たちが欲しい「愛」とは

この「あったかい感じの実感」に他なりません。

(愛にはたくさんの意味がありますが、それについてはまた後日)


愛の欠乏感がない人は

「両親に愛された」という事実を映画のスクリーンのように覚えているのではなくて

「両親に愛された」時に流れた、体の感覚と心の心地よさを覚えているのです。


逆のほうが分かりやすいかもしれませんね。

「先生に怒鳴られた」という事実を覚えているのではなくて

「先生に怒鳴られた」と時に体に流れた恐怖の感覚と、心で感じた脅えを覚えています。

そして社会に出た時に、会社の上司と先生をダブらせてみてしまって

必要以上に上司に委縮してしまったりします。

これを俗にトラウマと呼びます。



また話が脱線しましたが、この「心地よい感覚」を

自分にたくさん与えてあげる。


そうすると、心はだんだんと満たされていきます。


実はこのワーク

うまくできているか、できていないかを見分けるコツがありまして

うまくできている時は、人にやさしくなります。


私の経験談ですが、このワークをやった後、

お年寄りに席を譲ったりしたくなったり

いつもだったらやらないのに、

なぜか風で倒れた自転車を全部起き上がらせてみたり

落ちているごみを拾ってみたり。


なんとなく、優しい気分になって

それを実行に移したくなります。


これは自分が「満たされたから」です。


昨日も書きましたが、満たされてないと、何かを欲します。

満たされると、何かを与えたくなります。


ぜひ、自分を満たしてあげてください。


他にも自分を愛するための方法がいくつかありますが

また気が向いたら書くことにします。
ミスターチルドレンの「終わりなき旅」という曲に以下のような歌詞が出てきます。


 大きな声で 声をからして 愛されたいと歌ってるんだよ
 ガキじゃあるまいし 自分に言い聞かすけど また答え探してしまう


この詩は心の中に誰もが秘めている

「愛されたい」という願望を見事に表現しています。


自分なりに歌詞を解釈してみると



本当はすごく誰かに愛して欲しい。

慰めて欲しい、認めてほしい、評価して欲しい。

触れてほしい、私を見てほしい、優しい声をかけてほしい。

子供のころに得られなかった「無条件の愛」を感じたい!と

強く、本当に強く思っているんだ。



だけど、そんなことは大人になった今では口に出すのはあまりにも恥ずかしくて

子供じゃないんだから、と内から湧き出てくる感情を

大人の理性で抑えてはみるものの

でも、どうしてやっぱりこの満たされない想いを

埋め合わせることができるのか、

仕事で成功したら、この想いは満たされるのか

結婚したら、この想いは満たされるのか

お金持ちになったらこの想いは満たされるのか

もっと、もっと、自分が素晴らしい存在になったら

誰かが満たしてくれるだろうか

いろいろ、本当にいろいろ考えてしまうんだ。


そんな感じでしょうか。


愛情の欠乏感があると、他人を満足させるために一生懸命頑張るのですが

いつも他人が期待していたほど見返りを与えてくれないので

「自分が悪いから愛してもらえないんだ、自分は愛される価値がないんだ」

と絶えず自分を責め続けてしまいます。

そしてある日、崩れるように鬱になったり、見捨てられるのではないかと

不安でたまらなくなったりしてしまいます。


愛情の欠乏感は誰かが「愛」という薬で癒してくれるのを待っています。


だけれども、その期待が叶えられる瞬間は

人生でもそうありません。

あったら、ラッキー。

なぜなら、他人は私のために生きているわけではないからです。


そして、私たちは本当は、他人ではなく

自分自身に愛して欲しいと思っています。


自分で自分を愛せるようになること。


これができると、満たされない想いは満たされ、

幸せになります。


では、続きはまた今度。
先々日の日記の続き、無いかな~と思っていたら

思いついたので続きを書きます。


この間は「自分」が無い、って感覚は楽でした、って書きました。

「自分」って言葉がたくさん出てきて

読んでいる人は全然意味がわかんないだろうなって思いながら書いていました。


ここでの「自分」にぴったりおきかえられるのが「自意識」なのかもしれません。


ほら、「自意識過剰」ってあるでしょ?

あの人、私のこと嫌いなんじゃないか、とか

みんなが知らないところで私のことうわさしてる、とか。

いやいや、そんなに皆、あなたのこと気にしてないよって言ってるのに

そんなことない!みたいな状態。


誰でも多かれ少なかれそんな状態になったことがあると思いますし

そういう人を見たことがあったりすると思います。


年収が良くて地位もそれなりにあって、

すごいかっこ良いわけじゃないんだけど

そんなに見た目も悪くなくて(失礼!)

何よりもやさしい人で

きっと好きになる女性はいるだろうな、っていう人が職場にいまして。


周りの人はみんな「モテそうなのに」って思っているんですが

当の本人はかたくなに、「自分はモテない!」って信じ込んでおります。

自分の行った行動は女性が見たら「キモい」って思われる(と思い込んでおり)

他の人がそんなことない、って言っても一向に考えを改める事はありません。

だけど、結婚したい!って思ってます。


これも「自意識」が引き起こしている悲劇の一つの例ですね。



他人=自意識が無い=モテる

本人=自意識がある=キモい



この場合、本人の「モテ」のポテンシャル(潜在能力)はあるのに

現実として女性と付き合う事を不可能にしているのは

「自意識」です。


本当はそんなことないのに

間違いないって思い込む。

これが自意識がかける自分へのトリックです。



そして、僕が経験した「自分からの開放」は



本人=自意識がある=できない ←こっちの意識から


他人=自意識が無い=できる  ←こっちの意識へ



変わったような感覚なんです。


自分のことなんだけど、他人くらいの感じで自分を見ている。

それは、客観的とか、自分のことを引いてみる、

とかっていう類の話ではなくて

単純に「自意識」から開放された、

って感覚です。


もちろん、「自意識」が完全になくなったわけではないですし、

その状態がずっと続いているわけではありません。

たぶん、「自意識」が完全に無くなったら

それは「悟り」のレベルでお釈迦様の世界です。


ただ、「自意識」は確実にマイルドになりました。

薄まった感じがします。


なので、昔は「できない」って思っていた事が

いまでは「できるな」って思える事がたくさんありますし、

現に、現実化しつつあることもあります。


そういう意味で先日の日記

「こだわらない方が人生は流れていく」

という記事を書きました。


また続きがありましたら書きます。
今日は感情について書きます。


まず「悲しみ」ですが、

「悲しみ」は大切なものを失ったことによってできた喪失感です。

大切なものを失ったその心の傷が癒えるまで

「悲しみ」は時間を与えてくれます。

悲しいと何もしたくなくなるのはそのせいです。

体が動かなくなるのはそのせいです。


心の傷が癒えるまで、まあゆっくりしなさい、と

心が働いてくれているんですね。


心ってなんてやさしいんでしょうか。


次に「怒り」ですが、「怒り」の奥には「悲しみ」が隠されていると言われています。

悲しみや不安で行動できなくなっている状態を

「怒り」のエネルギーで保管して現実に対処しようとします。


しかし多くの人がやってしまうのが、「怒りの抑圧」です。


「怒り」を抑えつけると、「怒り」はエネルギーですから

外に吐き出されなければ行き場を失って、内側向かいます。


そして、自分を攻撃します。


自分を攻撃すると、自己嫌悪、自己卑下にいたり、

どんどん生きづらくなってきます。


自己卑下の下には「怒り」が、「怒り」の下には悲しみが隠れています。


逆にいえば、「怒り」のエネルギーを安全に外に出すことができれば

生きづらさは軽減されます。


私は他人に温厚だと思われていて、自分でもそう思っていました。

「怒り」なんて感じることはあまりない、と思っていました。


でもあるとき、

それはある心理ワークをやっていたときなんですが

自分の中に、自分でもびっくりするくらいの

「激しい怒り」が存在することに気がつきました。


それはそれは、とても激しくて

その怒りを感じているときは、

すぐに誰かを殴り飛ばしてやりたいくらいの激しい激情と言うに値するものでした。


でもその奥には

もっと自分を開花させたい!花咲かせたい!けど

花咲けてない、いったいいつになったら開花するんだ。

という強い悲しさ、絶望感があったのです。


その悲しみに気づくことができました。

それから何日か、その悲しみに寄り添うようにしていました。


心の傷は気づいた瞬間から癒されていきます。


体の傷は勝手に癒えていきますが

心の傷は無いと思っているといつまでも傷のままです。

ですが、あることが分かれば、体の傷と同様に勝手に癒されていきます。


自分の怒りと悲しみに気づき、癒し、

怒りのエネルギーをうまく行動のエネルギーに転化することで

自分の感情をうまく整理、活用できてきたように思います。


また続きがあったら、書きます。
前回の続きです。

ちょっと前にある瞑想会に行きました。



そこで、「自分」という実体は実は無くて

「自分」とは自分が「自分」だと意識した部分が「自分」なんだという経験をしました。

(わかりずらくてすみません。これを表現する言葉は他にないもので)



自分は実体じゃなくて、意識なんだと。

実体だと思っている自分は自分じゃなくて

自分だと思っているその意識が自分なのだと。

実体だと思っている自分は、実体だと思っているだけであり

本当は実体は存在しないのだと。

ちょっと説明するのは大変なのですが、

そういう経験をしたのです。



頭でわかるのではなく、体で、感覚で気づいたのです。

だから、言語化(頭)で表現するのがとても難しいのですが

そこはあえてチャレンジしています。


こういった話は映画「マトリックス」が好きな人は

良くわかるかもしれませんね。


実体(と勘違いしている)「自分」が無くなった時、

すごい楽になった感覚がありました。

それは、「自分」は知らず知らずのうちに「自分」に固執していたからだ、

と言うことに気がつきました。



「自分」は必死に



「私」「あなた」

「私」「世界」⇒「個」の感覚



という「私」を「他」と切り離す分離感を強くして、

「私」の中にせまく閉じこもっていました。

(「個」の感覚=「孤」の感覚)



しかし、実は「勘違い」であったと気づいた瞬間

閉じこもっていた狭く、押し込められていた感覚から

解放された感じがしたのでした。



閉じこもっていた狭い感覚は

解放されるまで気付かなかった感覚で

楽になって初めて、こんなに「自分」が「自分」に固執していたことが

苦しいことなんだ、苦しかったんだ、と気づきました。



その後、すごい生きるのが楽になりました。

いや、もちろん、寝不足の日は仕事がつらいし、

飲みすぎたら翌朝頭も痛いし、後悔もしますが

自分に対する執着が減って

「どうでもよい」って感じなんです。



(感覚として「どうでもよい」って感じがぴったりなのですが

文字にすると、あきらめ感漂うネガティブな言葉に見えます。

しかしいたって、軽くシンプルで楽な状態です。

何がどうなっても本質的には狼狽するようなことではないと思っており、

それに対処できると知っているから、「どうなってもよい」みたいな感じでしょうか。)



ということでまた続きがありましたら、書きます。
言葉というのは不便です。

決して自分が思った通りの表現ぴったりな言葉が見つかりません。

言葉はこの世界を分断するためのものであり、「あれ」と「これ」を分けるためにあります。

言葉自体に分離する性質があるので、どうしても書き手の意図と別方向に受け取られてしまうことがあります。

最近はこの言葉のもどかしさを強く感じていました。

しかし、最近感じてることは、きっと良い流れなので、あるがままを書こうと思います。

最近感じているのは、こだわればこだわるほど物事は前進せず、止まってしまう、ということ。

そして、人が一番こだわるのが「自分」。


自分の人生を良くしたい思い通りにしたい

そう思えば思うなほど、人生の流れは止まってしまう。

逆に、人生は何が起こるか分からない。
自分のことは大切だけど、ある意味自分は大自然、宇宙の中の一部であり良い意味で自分はどうでもいい。

って思うとすーっと進んでいく。

睡魔が襲ってきたので続きはまた今度。
mixiでイイネが満タンで押せなくなった記事です。

広まることを願います。


原文↓
http://bit.ly/gCMnBR






あたしは1Fにいた。
電力社員の人たちを見ていた



早く逃げたい
家族に会いたい



衝動を押し殺してみんな作業に当たっていた






厚生班
医療班
情報班
総務班
消防班

など、各班を作ってみんなやるべきことを全うしてたよ。






現場から計測器を持ち出して逃げたため、一晩中事務本館周辺には警報音が鳴り響いていた








普通さ、いくら東京電力社員だろうと

あんな大地震がおきて
放射能レベルが上昇してしまったら



あたしなら仕事なんて投げ出してしまう

家族を探しに行ってしまうよ。







電力社員はしっかりあたしたちを守ってくれようとしました。





何を言っても言い訳にしか聞こえないけど、

原子力発電所は災害対策はしっかりやっていました。

つい先日、事務本館にて避難訓練を行ったばかりでした





1号機は若干老朽化していました。

なぜ老朽化がわかっていながら、その対策に乗らなかったのか。理由はたくさんあります。



どんなにKY活動を行っていても、天災は様々な種類を持っています。

地震だけでもね










地域住民の怒りの声と言うけど、電力社員の方には本当に感謝しています。




発電所のおかげで日々の安定した生活を送れた。

発電所のおかげで田舎にも仕事がたくさん増えた。

あたしたちを救ってくれた。







お願いします。

彼らを責めないでください。



いろんな意見があるけど、あたしは彼らをずっと見ていました。


みんな必死で、みんな全力でした。





どうか彼らを責めないでください。

そして彼らを救ってください。








追記




皆さん本当にありがとうございます。

少しでも、一人でも多くの方に彼らの事を伝えたい。

電力社員だけでなく、協力企業の方も我が身を削って福島を、日本を守ろうとしてくれています。

彼らの努力を「人災」なんて言葉で片付けないでください。

記者会見を行っている幹部の責任でもありません。どうか、責任自殺なんてしないでください。



福島第一の吉田所長はとても素晴らしい方でした。

こまめに各グループを回り、社員としっかり会話をし、決していばるような方ではありません。







今この時も
あなたが眠っているあの時も

彼らは目に見えない敵と戦っています。
でもその敵は、皆さんの生活を救ってきたモノでもあることをどうか忘れないで下さい。


今後復旧するのに、
地域住民から原子力発電所の立地は大反対になるでしょう。




あたしは賛成します。

今までずっと助けてくれたから。










皆さん、引き続き広めてください。

URLを貼っても構いません。
お願いします。
$幸せエネルギーで今日も楽しく!

mixiでQ&Aを始めたのでシェアします。

Q.

真吾さん、お久しぶりです。
以前も、相談にのってもらった●●です。
また、相談にのってもらいたくて、コメントしました。
よろしくお願いしますm(__)m
私は、保育士として働いているのですが、今勤めている保育園では、
日常的に、子どもに対して、ひどいことを言います。
子どもが近くに来ると、あんたがいるだけで、ストレスがたまるとか、
おしっこ漏らしたら、何でもらすのごめんなさいは!
など、まだ0才や1才の子ども達に言うのです。
あと、たびたび子どもを叩きます。
パートの私は、何も言えません。
辛くて、涙が出るときもあります。
皆さん、人は悪くないのですが、何でこんな風にしか子どもと関わる事が出来ないのか不思議です。
どういうふうに、受け止めたらいいのかアドバイス下さいm(__)m



A.
文章を読ませていただいて思ったことをつづらせていただきます。

集団というのは力学というものが働き、
ストレスは強いものから弱いものに流れます。

例えば、家族を例に取ってみましょう。

ストレスフルな職場で働くお父さんが、
家に帰ってお母さんに、そのイライラをぶつけます。

ストレスを受けたお母さんは、それを子供にイライラをぶつけます。

ストレスを受けた子供は、それを学校でほかの子供にぶつける(いじめ)か
ストレスを他の子供にぶつけられない子供は自分で自分に攻撃をして
無気力、不登校、ひきこもり、自傷行為となります。

実は学校の問題は、働いている人が幸せを感じにくい
現代の会社というしくみが起こしている
というのが私の持論ですが、ちょっと話がそれました。

このように感情は連鎖するという特性があります。

ですので、●●さんの職場ではまず第一に
「ストレスを与える何か」⇒保育士のみなさん⇒子供
というストレスの流れがあるのかもしれない、と考えてみましょう。

この「何か」は園長先生、
影響力のあるリーダー的保育士さん、
預けている親など
権力を持っている「人」がまず考えられます。

もしくは、長すぎる労働時間、
給与が低いなど「職場環境」も考えられます。

あとは、それとも子供に対してイライラしてしまう自分に腹が立つとか、
自分の身の回りが不安定とか、
個人的な状況も考えられます。

いろんな不満、ストレスが絡み合って、
それが子供に行ってしまっているような気がします。

まずは、●●さんがそれをキャッチされてみてください。
保育士さんたちは何にストレスを感じているのか。

これを取り除くか解決ができるのであれば、そうされるといいのですが
おそらく、立場上難しいこともあるかと思います。

その場合、保育士さんたちの話を聞いてみて、
保育士さんたちが抱えている苦しさを理解してみる。
もし共感できるようでしたら

「大変ですね」
「それはつらいですね」
「頑張ってるんですね」

と、ねぎらいの言葉をかけてあげてください。
人は自分の苦しみを共感してもらえるとラクになります。

そして、その人を信頼するようになります。

まずはここから始めてみてはいかがでしょうか?

うちも2歳の子供がいます。
妻も子育てで大変な時期がありました。
私はなるべく妻が子供をきつく叱っても妻を責めないようにしました。
子供を傷つけて一番つらいのは、傷つけた本人です。
妻の疲労を和らげるために話を聞いたり、マッサージをするように心がけていました。
それが妻の状態が子供に行くことが分かっていたからです。
もちろん、うまくいかないこともたくさんありましたが・・・・

保育士さんは、毎日他人様の子供たくさん預かって、
どんなに頑張っても高くない収入で、預け親から急に今日は遅くなるとか言われて
自分のスケジュールもうまく立てられなかったり休日も少ないでしょう。

理解してもらえる人が必要なのかもしれませんね。

真吾


【ご質問者からの声】

私は、この保育園に勤め初めて、4ヶ月になります。
まだまだ保育士さんとの関係も出来てない状態です。真吾さんの言うように、今の保育情勢すごく大変です。ストレスあるかもしれません。
真吾さんのアドバイスを意識していきたいと思います。
本当に、ありがとうございましたm(__)m



お役に立てたようでうれしいです!

まだまだ、Q&Aやりますので、ご質問ある方、ふるってご相談ください!

真吾

今日、人間の3大不安というのを目にしました。

「貧困」、「健康」、「孤独」だそうです。



もし、この三大不安

コンプリートしたらどうなるだろう?



仕事が無くて、食べるものが無くて、

友達も家族もいなくて、病気している。。。



つらい!!



って正直思いました。



もし、自分がその状況になったら

本当に幸せなんて自分とはまったく関係ないって

自暴自棄になってしまうと思います。



少なくとも

仕事があって

電話をすれば話を聞いてくれる家族か友人がいて

仮に病気をしていても、動ける程度に健康である。



これってすごく幸せなことなんだな、

ありがたいことなんだな、

て、思いました。



そんなことを考えていたら

昔、「日本むかしばなし」ってアニメがあって。

そのエンディングテーマの

「にんげんていいな」って曲を思い出しました。



みんなでなかよく ぽかぽかおふろ

あったかいふとんで 眠るんだろな

ぼくもかえろ おうちへかえろ

でんでんでんぐりがえって ばいばいばい



あったかいふとん

あったかいおふろ

あったかい友人や家族



それを観て動物たちは

にんげんていいなってうらやましがります。



僕たち人間は動物かららやましがられるくらい

豊かな存在なんだなって気がつきました。



もし、今日一日嫌なことがあったり

自分は独りぼっちだと思うことがあったら

ぜひ、こう呟いてみようと思います。



「にんげんていいな♪」




真吾