否定、批判、非難について | 身体の使い方の秘訣 〜運動の土台、整体の土台は、身体の使い方スキルUPにあった〜

身体の使い方の秘訣 〜運動の土台、整体の土台は、身体の使い方スキルUPにあった〜

身体の使い方をレベルアップさせる秘訣を公開しています。

美しい姿勢、変幻自在な動き、対人関係におけるベストな「間」、疲れにくい体質の構築など、身体を「思い通り」にデザインする方法、整体施術をレベルアップさせる方法についてお伝えします。



● 否定、批判、非難について

こんにちは、山崎です。

先日、久し振りにメルマガを出しましたが、幾つか感想をいただきました。

そこに「筋トレに否定的なことが書かれてますが」というメールがあったのですが、前回のメルマガでお送りした内容は、筋トレを感情的に否定したものではなかったので少し戸惑いました。

「俺の言葉の選択はそんなに悪かったかな?」

と疑問に思ったので他の人に聞いてみたら、筋トレを否定している文章ではないと理解してくれていました。とはいえ、もっと言葉の選び方を工夫しなければならないと思ったので、ここに書いてみます。


以前の僕は、筋トレに対して否定的でした。

3年ぐらい前までだと思うんですけど、筋トレに対して自分に「対立する気持ち」があったのは事実です。

自分が10年以上取り組み続けてきた筋トレで、愛し続けてきた筋トレで、「理想の動きを実現できない」と努力の限界を感じたため、僕は7、8年前に一切の筋トレを絶ちました。

こうして筋トレを絶った時、体力に頼ることを絶った時、自分を理想へと導いてくれなかった筋トレに対して、「対立する気持ち」が芽生えてしまったのだと思います。


おかげさまで20歳ぐらいの頃に抱いた「理想の動き」を手に入れることはできましたが、理想って厄介なもので、いつまで経っても理想自体が上がり続けるため、満足することはありません。

課題が山積みだからこそ、不満足だからこそ、難しいからこそ、一生探求し続ける意味を見出せて楽しいんですけどね。


老化によって筋力や柔軟性が衰えたとしても、60歳ぐらいになった時、36歳の今よりも「動きのレベル」が高くなっていることは確信しています。

動きの質と体力は、あまり関係がないからです。




「特定の筋肉を緊張させる」

ということは、その緊張させている箇所に感覚神経運動神経が集中しますから、動画のように指を握られた時、足を踏ん張ると足に感覚が向くように、指以外に力が分散してしまうことになります。

つまり、指に力が伝わらないということです。

これを「筋力でやってはいけないよ」というのは、否定していると言えば否定なんですけど、そこに感情というか、気持ちは入っていないのです。

胸の筋肉を指差して「これは僧帽筋です」という人がいたら「それは違うよ」と伝えるケースと同じで、感情で「筋力に頼ること」を否定しているのではなく、普遍的に目の前でも起こる事実を伝えているだけと理解してもらえたら嬉しく思います。


って、何でこんなに気を遣っているのかというと、筋トレを多少行うぐらいなら別に「否定するようなことではない」とも思うからです。

・年齢を重ねても楽に動きたい。
・美しい「動き」を魅せたい。
・誰よりも速く強く動きたい。


という意思を一般の人は強く持ち合わせていないため、ほどほどの成果を求めているならば強い緊張が入らない程度に「やってもいいんじゃない?」と思うようになりました。


運動を取り組んだ経験の少ない人ならば、たとえ身体を直線的に使おうとも、全身運動ではなく部分運動でも、等速度ではなく加速運動でも、眠っている「神経筋」が目覚めたら、動きの質が改善されることがあると思うため、むしろ何もしないよりは何か取り組んだ方が良いと思っているほど。

本当は「歩いたら?」と言いたいですけど、歩くことが億劫な人もいるでしょうから、そんな状態でも向上心を持って取り組んでいる人に「筋トレやめなよ」なんて口が裂けても言わないです。

「あぁこりゃ、たいした成果が出ないな」と思っていても、相手が僕のアドバイスを望まない限り、相手に「違うよ」って言ってても、感情を逆撫でするだけなので何も言いません。

批判するとか、非難するとかっていう行為は、本当に身近な人にしかしないのです。


プロパガンダ的手法を用いて「相手をdisって自分が上に魅せる」って手法もあるでしょうが、相手に対立的な感情を持たせてしまったら、敵を増やし、感情を逆撫でしてしまうだけ。

ビジネスや恋愛、政治の場面などでもよく用いられる手法なのでメリットはあるんでしょうけど、僕が相手をdisりたくなるのは、相手の「成長を促したい場面」に限られていると思います。

身内であれば、間違っていることに気付かせるために「違う」としょっちゅう言ってますけど、関係ない人に「違う」という時は、感情を込めず、事実のみが「違う」という意思でお伝えするようには心掛けているんですよ、これでも。


断定的に書くことで誤解を招くこともあるでしょうが、敵を作って嬉しい人などいないように、僕は身内ですら「彼(彼女)が間違っていることを言えない自分」にイライラすることがある。

それは、彼らの意思がこちら(僕)に向かないと感じるから。

「こいつ、そこまで価値を感じてないな」
「批判を恐る意思の方が強いな」

などなど、僕が「一生取り組み続けることを見つけた」というほどに思える価値を彼らが共有しようとする意思を感じない時、成長意欲を感じない時には、批判しても無駄なので放っておくしかなく、こんな場合は身近な人ですら批判しません。

だから、僕は内心「違う」と思っていることも言えないヘタレみたいになっており、どんどんストレスを体内に溜めている状態です。

「おかげで、ストレス太りしちゃうよ」

って、誤魔化すことしか思い浮かばないのが現状ですが、本気になれない人と、覚悟のない人と、僕と同じぐらいの価値を共有していない人と、これからどうか関わるべきか。

僕にとって乗り越えなければならない課題だろうから、誤魔化す以外の方法を模索しているところ。

まだ、そんな感じです。