追記 ~他人の善意は期待しないほうがいいんじゃないだろうか | 日常の中の非日常

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タイトルを変えてみた。
仕事のことなんかも書いてみたり。

昨日の晩に書いた、乙武氏とイタリアン・レストランの騒動に関するエントリについて、少し追記。

どこが一番の問題だったのかなーと思うと、他の多くの方も指摘されているように、予約した際に「車椅子である」「出来れば1階からお店まで持ち上げて欲しい」「車椅子はどこかに置いといてOK」といったことを伝えておくべきだったのだろうと思う。

じゃあなぜ伝えなかったのかというと、乙武氏のブログに記載があるように「今までも伝えてこなかった」「それで困ったことがなかった」からだという。

そこが一番の問題だろうとは思うんだけど、ここをもう少し掘り下げると、乙武氏が『ものすごく恵まれていた』ことが見て取れる。車椅子の人で、どこの飲食店に行っても店員が優しく気を遣って対応してくれるなんて、有り得ないんじゃないかと。残念ながら、日本人全体はそこまで優しくないと僕は思っている。

おそらく乙武氏が有名人だから、ということが大きく作用していると思われる。有名人でない、一般人だったらどんなところに行った時でも最高の対応をしてもらえるだろうか?おそらくNoだと思うんだよね。もちろん「常に邪険に扱われる」こともないと思うけど、気を遣ってもらえることも邪険にされることも、両方あるんじゃないかな、と。

乙武氏は『有名人である』がゆえに、どこに行っても最高級の対応を受けてきた。そしてそれが当たり前になっちゃったんじゃないかな。それで奢りが出たんだろうと思う。

「人間誰しも、困っている人には手を貸してくれるし、貸すべきだ」って感じで。

乙武氏はおそらくは否定するだろうけど、そうでなかったら、ここまで瞬間湯沸し的に激怒しないよ。

ここが僕が一番指摘したいポイントで、乙武氏は『自分勝手に』相手が自分の立場を慮って最大限の善意でもって対応してくれる、と期待したわけだ。それを裏切られた時に怒りを感じた、と。

相手に善意を発揮してもらうことって、期待しちゃいけないと思うんだよね。善意って、強制されるものでもプレッシャーを掛けられるものでもなくて、本当にその人が「やろうかな」と自発的に起きるものだと思ってる。

そんなあやふやなものを、他人が常に発揮してくれる、と期待するほうが間違ってるし、それで発揮してくれなかったら、その時点で勝手にマイナス評価を与えるわけでしょ。どっちが傲岸不遜なんだ、という話だ。

もちろん、善意を発揮する人間が多いほうがいいし、そのほうが生活もしやすいしいがみ合いも少なかろうし気持ちもいいだろう。だけどそれは期待するもんじゃない。だって、義務でもなんでもないんだからね。

それに期待していなかったところにやってもらえたら、もっと嬉しいでしょ?やってもらって当たり前、って時と、自分で何とかしよう、と思っていた時と、手助けをしてもらった時にどっちが嬉しいか。

そして期待してなかったら、やってもらえなかった時も失望しないし相手のことをマイナスに評価しないよね。そっちの方がお互いに健全だと思うんだわ、僕は。

まあコレに関して、乙武氏のこともイタリアン・レストランのことも、どうこう言うつもりはない。取り敢えず終わったみたいだし。まあ乙武氏のブログの終わり方は、正直気持ち悪いけど。

でもコレを他山の石としていくべきだなぁ、と個人的に思いました、という話です。