本日は、有閑爺い様の寄稿コラムです! 時代は変わると申しますが、私は昭和55年(1980年)生まれでほぼ平成育ちです。バブル崩壊のころは11歳くらいでしょうか。社会に出た直後にデフレになり、「景気が良い状態」をじつは知りません。
なるほど、お書きになられている時代がどのようなものだったのか? なかなか想像することが難しいのですが、きれいな文章なので「なんとなく」はわかる気が致します。
私と同世代くらいの方たちには、是非ともお読みいただきたいコラムです。
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老いの一徹:【今様今昔物語:昭和という時代の特徴】 | 有閑爺い様
来月からは時代は「令和」となります。しかし、私には「昭和」という時代が最もなじみの深いもので、「平成」という時代は瞬く間に過ぎ去ったような感があります。
時間の流れを受け止める感覚というのは、年齢と共に変わり、年老いると1年がたいへん短くなります。昔から言われていることですが、子供は1日が非常に短いが1年は大変長い、それに対して老人は1日は結構長いのだが1年は非常に短い、ですので私には「昭和」は長い期間であり、「平成」はごく短かったように感じています。
これからの「令和」という時代は、その終わりを確認することなく寿命が尽きると思いますので、私には付録のようなものでしょう。
前置きが長くなったのですが、私にとって今回のコラムは「進撃の庶民・平成最後のコラム」です。そうした時代の節目ですので、先々代となる「昭和」とはどのような時代だったのかということを、振り返ってみたいと思います。
私が生まれたときは国名が「大日本帝国」でありましたので、「帝国臣民」として生まれたわけです。ほどなく「敗戦国民」となり、独立後は「日本国民」となったのですが、これらは全て「昭和」という時代に起きたことです。
余談ですが、私が生まれたときに私の母が「徴兵保険」という保険に入ったようで、私が軍務につくか軍の学校(例えば幼年学校・士官学校・兵学校等)に入学すれば保険金が下りるというもので、その証券もありました。
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「平成」育ちの一般の人にとっては、「軍事」ということには日常的な接触は少なく、話題になることもない、極めて「平和的」な暮らしぶりだと思います。
実は私のような世代は、10才ほど年上の人は「軍国少年」として空腹を抱えて育ち、20才ほど上の人はほとんどが軍歴の有る人(将校の方もおられましたが多くは兵隊さん)だったので、言葉の端々に「軍事」に関連したことが出て、話を合わせる場面も多くありました。
また、子供の時の遊び道具も「戦前・戦中」の物もたくさんあり、イロハかるたでも「『ぬ』抜けば弾散る氷の刃」といった札があり、将校さんが刀を抜いて突撃するような図柄が書かれたもので遊んだりしました。
防毒マスクが何気なく物置にあったり、当時まだ焼け野が原の街中で、焼夷弾の六角の筒が落ちていたりと、「平和的」なものを探すのが難しいと言える状態でした。1トン爆弾の落ちたところには大きな円形の穴ができて、そこに水が涌き池となっていました。そこに誰かが鮒でも放したのでしょう、鮒釣りをして遊んだこともあります。
私が学んだ力学の演習問題でさえ「初速 800m/s の弾丸を以て、3750m の標高を有する富士の高嶺を打ち超えるには海面に砲を据えたとして砲身の仰角をいくらにするか」といったものや「重量 30g の弾丸を 500m/s の初速度で毎分 500 発宛発射する機関銃は幾馬力相当の仕事をするか」といったものでした。その教科書の発行される数年前まで朝鮮戦争があり、米兵が街にあふれていた時代です。
つまり、昭和の半ばまでは「軍事」が身近な存在だったのです。
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日本に近代工業が定着したのが「昭和」という時代であり、このことも大きな特徴だったのです。
昭和が終わろうとする頃の1986年(昭和61年)に森谷正則著「技術開発の昭和史」という本が出版されましたが、この本にどのような技術開発をへて日本の近代工業が成立していったかが、具体的な事例で説明されています。
昭和の初期は「軽工業」と言われた物は一応の水準に達していたが、「重化学工業」は欧米に大きく遅れを取っていました。
そのため大正15年(つまり昭和元年)に商工省(今の経産省)が「近時世界列強ノ状勢ヲ見マスルニ国産振興輸入防遏(ぼうあつ:防止のこと)ノ声ハ宛然産業界ヲ支配スル一ツノ旗印」とのもとに国産振興委員会を設け、全工業製品の国産化を号令しました。
その成果は着々と上がり、戦前時点で電気通信・電子・高分子化学の分野では最前列に並ぶまでの力をつけ、敗戦後いち早く輸出製品が作れるまでになったのです。
もう一つの要因は軍需生産にあり、製造技術が大幅に向上して大量生産方式が根付き、また工学系の新卒者も引っ張りだこで、若い柔軟な思考で何にでもチャレンジする、といった活動が兵器生産に活発に行われ、その流れは戦後も変わらず続々と新製品が出て来たのです。
例えば、あまり知られていないことですが、電子顕微鏡は戦後すぐに製品化され、昭和30年代には世界のシェアの約半分は日本が抑えていたのです。
つまり、現代の日本が先進・ハイテクの国として世界に知られるようになった基盤は「昭和」時代に築かれたのです。
この工業化の範囲や到達した深さなどは個々に取り上げられないほどなので、興味のある方は文献等で調べていただければと思います。
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ただ、懸念があるのは、平成に育った方々にそうした文献に記されていることが、実感として伝わるのかどうかです。私が紹介した森谷正則著「技術開発の昭和史」という本に書かれている内容は、そのニュアンスが生々しく実感として私には伝わってくるのですが、おそらく平成育ちの人にはピンとこない内容だろうと思われるのです。
例えば、私が、社会に出たころの「電話」つまり「電気通信の技術レベル」で言うと、「市外通話」というのは「即時通話」ではなく「待時通話」であり、電話局の交換嬢に接続を申し込み相手とつながったなら電話局から「つながりました」と連絡があり、やおら通話を始めるといったものでした。
これを「全国ダイヤル即時」ということで通話できるようになったのは昭和40年代です。このことに大きく貢献した技術が昭和初期に日本で開発された「無装荷ケーブル」であり、「短搬(短距離搬送)」「裸搬(裸線搬送)」といった技術集積を経て、1本のケーブルで960回線の通話ができるようになって「全国ダイヤル即時」が実現したのです。
これらは現在は使われなくなっていますので、現物を見ることもなく、経験することも不可能なもので、実体が把握できないものとなっています。つまり文献にはあるので、字面は追えるが「何のことかがピンとこない」わけです。
時代が変われば、書かれた内容がピンとこないであろう具体的な例を挙げてみます。
①都市銀行は周期的に緊急の事態に対処するため、あるいは単に貸付能力を増大するために、どこからか流動資金を調達してくる必要に追い込まれる。調達には二つの方法がある。ひとつは都市銀行がいわゆるコール市場で他の都市銀行から(あるいは地方銀行や他の貯蓄機関から)お互いに緊急資金を借り合うやり方である。この場合、利息は時によると異常に高いものになる。例えば昨年(引用者注:1961年)国際収支の悪化で金融引締めが行われたとき、大きな都市銀行は20%以上の高利でコール市場から資金を調達したことがある。もう一つの方法は日本銀行からの借入である。日本銀行は形式的には最終的な貸手とされているが、ブーム時には資本造出の主要機関としての役割を果たしている。日銀の資本造出のやり方は、戦後の復興期にとりわけ強く押し進められた。
①の文章は英国「エコノミスト誌」の記者が、1962年(昭和37年)日本の金融の事情を観察しそれを記事としものです。
私には、ここに書かれたことの内容は生々しい実感として捉えることが出来ます。日銀が都市銀行に金を貸し出す際にどんな注文を付けたかまで分かります。
しかし、平成育ちの人には上記の文が何を表しているのかが、おそらく理解できないでしょう。上記の文は、別に理論や理屈ではなく、行われていることをそのまま書いたものなのですが、それゆえに余計に理解しがたいと思われます。
平成の終わりが近づいた時、金融に関しては次のような文が記されています。
② 例えば、銀行預金一つとっても、「銀行が何らかの借用証書と引き換えに、自らの負債としての銀行預金というおカネを【書くこと】で発行している」というのが真実なのでございます。上記を覆すことは、どうにもこうにも不可能です。
②の文章は4/9付け三橋ブログに述べられたものなのですが、素直に上述の文を読めば『「借用書」を受取って、それに記載されている金額を預金通帳に預かったと書き入れた』です。昭和育ちの私にはその記述は「不正経理」にしか思えません。
昔人間の私にはそうとしか読めないのですが、平成育ちの人には借用書を受け取って、それは預金されたものであるとしてと記帳することは至極当たり前のことなのでしょう。
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いずれにしても「昭和」時代に行われていたことを書いた文献が、現代では実感を伴って読めないようになっていることは事実でしょう。
明治の初めころ坪内逍遥という文学者が、下宿先のおやじが「これは面白いから読んでみな」と渡されたのが井原西鶴の書いた浮世草子「日本永代蔵」だったそうです。
坪内逍遥にはそれがもう読めなかったそうです。私が若い時に普通に読んだ夏目漱石が教科書でフリガナ注釈付きで取り上げられていると聞き及んだことがあります。
これから「令和育ち」となるであろう人たちは、昭和に書かれた文章はフリガナ注釈付きでないと読めない世代なるのかもしれません。
平成育ちの人はまだフリガナ注釈なしで昭和に書かれた文献は読めると思います。繰り返し読めば実感が伴ってくるかもしれませんので、虚心に向かえば得られるものはあると思います。
(了)
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