本日夜は、若手の期待保守言論人・石川様のコラムです!
今回も、右派左派問わず、より多くの方々に読んで頂きたいコラムです。
石川様の思想に一度触れるだけでも、一気に物事の認識レベルが上がるのは間違いなし。
それでは石川様のコラムをどうぞ!
(影法師)
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『自衛隊は今生きている1人1人の生命を守るためのもの……ではない』~石川様
世の中では、
「安倍首相はとにかく憲法を改正して、歴史に名を遺すことに執着している」
というふうに噂されてきました。
で、それは確かに外目で見ていてもそのように見えますね。
と言うのも、安倍首相が言う憲法改正議論は、いつも甚だ間違っている……というよりチープで、薄っぺらいからです。
例えば、みなさんご記憶でしょうか。
以前安倍首相は、
改正条項における「発議の要件」を「衆参3分の2」から「衆参2分の1」に改正しよう……
などとおっしゃっておりましたでしょう。
ここでは詳しくは言いませんけれど、この「改正条項の改正」というのは穴だらけの民主主義的な話なのです。
だって、ざっくり言えばこれは
「民主主義憲法を、さらに民主主義的にするのだ」
という話だとも言えるのですから。
ただ、どうやら「改正条項の改正」が(保守派からでさえ)イマイチ人気がないということになると、次に安倍首相は
「憲法9条2項は据え置きで、自衛隊を明記する」
というようなチンチクリンな案をおっしゃいました。
このアホみたいな改正案の初出は先の5月でしたか。
あの時はさすがに
ヘナヘナヘナ……
と、なりました。
そりゃあ確かに『日本国憲法』というのは、ヒドイ憲法ですよ。
少なくとも「前文」「二章」「三章」など根幹の大部分は破棄すべきクソッタレ性を帯びた憲法です。
でも、そのクソッタレ性を超える「安っぽさ」というのは理論上ありえるのであって、
「改正条項の改正」
や
「9条2項据え置きでの自衛隊明記」
というのは、そういうシロモノなのです。
◆
そして、何故、そんなチープな改正案しか出てこないかと言えば、
1「なんでもいいから憲法を改正するため」
に、
2「衆参3分の2と国民投票過半数を得るため」
に、
3「世論で受け入れてもらうため」
に、
=「憲法が『非政府の人民』に媚びている領分には手を触れず、また、さらに『非政府の人民』の都合を満たすような改正案を編み出そうとするから」
でしょう?
私は、憲法の根本問題は「単に軍隊を持てない(ということになっている)」こと以上の問題があると思うのですが、その話はまた別の機会に譲って、ここではちょっと軍隊のことに注目してみましょう。
というのも、世論では憲法問題と言えば(都合よくも)ほとんど「9条」と「自衛隊」の話しかされませんから。
(※もっと「この憲法そのものがヒドイ」という議論をするべきなんですけれどね)
つまり、安倍首相がどうにか民主的に『非政府の人民』へ媚びて憲法を改正しようとする内容も、
「今生きている日本人1人1人の軍隊観」
というものを背景にしているところが大きいはずなのです。
つまり、
「安倍首相も含めた大衆世論の常識としての軍隊観」
が間違っているので、こうした安っぽい改憲論が跋扈するということが言いたいわけです。
では、その「大衆的軍隊観」の根本的な間違いとは何か。
それはほとんどの現代日本人が、
「自衛隊は、今生きている日本人1人1人の生命を守るためにある」
と「前提」しているところです。
◆
この
「自衛隊は、今生きている日本人1人1人の生命を守るためにある」
という(狡猾な)間違いは、現今「保守っぽい人」も、「リベラルっぽい人」も、「どちらでもない大多数の人」も、薄く広く共通して犯している間違いです。
少し話はズレますが、進撃のみなさんは、佐藤健志さんという方をご存じでしょう。
佐藤健志さんはとても面白くて、特に保守派の批判はキレッキレですよね。
でも、佐藤さんは、リベラルに対する批判はあんまりヤル気なくて、「右も左も……」と言うためだけに「一応はリベラル批判もやってますよー」とやっていらっしゃる感じは、すごくします。
(※だから個人的には、佐藤さんの論は右批判の方だけ参考にすれば良いかなーと思ってます)
中でも、
「リベラルは理想主義で9条堅持を言う」
というような批判は凡庸すぎるし、ちょっとマトを外しているのではないでしょうか。
私には、(自衛隊への風当たりが強かった昔ならいざしらず、)今はそんなふうには見えません。
そりゃあ今でもゴリゴリのサヨクなら別かもしれませんが、
「リベラルの大多数」
と
「大多数のニュートラル(中立)」
の「9条堅持論」の実際は理想主義なんかじゃない。
彼らは、
「9条によって、政府を制限したい」
と言っている(あるいは思っている)だけでしょ。
そして、
「自衛隊が、1人1人の生命を守ってくれる領分」
については、むしろ歓迎しているくらいなのです。
(※これは共産党だってそうなのですよ)
対して、一部の保守っぽい人たちの愚鈍なのは、いまだにごく一部の理想主義を仮想敵にして、
「9条があると国は守れない」
としか言わないことです。
でも、保守派の言うこの場合の「9条があると国は守れない」の意味は、外国が『ジャーン!』と攻めて来たり、テロが起こったりした時に、
「自衛隊が、1人1人の生命を守ってくれなければ死んじゃうじゃん」
くらいの意味でしか言っていないのがほとんどでしょう。
その意味では、保守とリベラル、そしてニュートラルな人も、みーんな同じ軍隊観なのです。
すなわち、
「自衛隊が、1人1人の生命を守ってくれるかどうか」
を気にしているだけという意味で。
違って見えるのは、ただ、
「どれくらい政府の軍事的な権限を制限したい」
と思っているかの度合いと、
「どれくらいの軍事的な権限を与えれば、1人1人(自分)の生命が守られるかの見積もり」
によって、意見が違っているだけでしょう。
◆
でも、それらがすべて根本的に間違っているのは、
「今生きている日本人1人1人の生命を守る」
ということを自衛隊(軍隊)の最終的な価値目的に置いている「前提」が絶対おかしいからです。
だって、よく考えてみてください。
1人1人の人間の命を守ることそのものが自衛隊の最も高次な目標ならば、何故、外人の、たとえば中東やアフリカなどの人間1人1人の命より、とりわけ日本国籍民の命を守る必要があるのでしょう。
命そのものが大事なら、60億人の命を平等に守っていなければおかしいじゃないですか。
税金を払っているからだと言う人があるかもしれませんが、自衛隊の方々だって税金は払っていますからね。
私が気になるのは、こうして自衛隊を単なる
「自分の命を守ってくれる公営用心棒」
のように前提しているくせに、いっちょまえに「感謝」だけはしている素振りが散見されることです。
でも、「公営用心棒」のような意識は根本的に欠陥があるのです。
と言うのもそれだと、何故
「日本人の一部の命(自衛隊の命)」
が、
「日本人の大多数の命(自衛隊ではない人の命)」
を守らなきゃならんのかというところに正当性がないからです。
だって、日本人の1人1人の命が最終価値なら、自衛隊員の命を危険に晒すことに正当性が担保されないでしょう。
つまり自衛隊の存在を認めることは、
「危機の時に先に死ぬ順」
があることを、本当は認めているということになるのです。
それを認めないのは
「自分が後の方で死ぬことになっていることの後ろめたさ」
か、
「徴兵などされて、自分が先に死ぬことになるのが嫌だと思っているか」
でしょ。
でも、自衛隊(軍隊)の存在自体が
「危機の時に先に死ぬ順」
のあることを前提しなければ存立しない以上、
「先に死ぬ基準」
というものがあることになる。
そして、「先に死ぬ基準」を想定するためには、
「1人1人の命……以上の目的」
がなければ、無理でしょ。
だから、
「自衛隊の存在そのもの」
が、
「1人1人の命……以上の目的」
のあることを証明しているはずなのです。
ここをごまかしているのは都合の良すぎる偽善というものですよ!
◆
軍隊、自衛隊というのは、別に「今生きている日本人1人1人の生命を守るため」にあるのではない。
では、自衛隊(軍隊)とは、本来的になんのためにあるか。
たとえば、三島由紀夫は、
「自衛隊の『健軍の大儀』とは、天皇を中心とした『文化圏』を守ることだ」
と言って割腹自殺しました。
これが正しいんです。
簡単に言えば、
自衛隊(軍隊)の大目的とは、
「日本国家を存続させること」
を、
「暴力の側面から保障するため」
なのです。
この大目的以外に、自衛隊(軍隊)という暴力装置の存在が許される根拠はありません。
もちろん、この「日本国家の存続」という大目的を実現する「手段」として、
「今生きている国民の生命と財産を守ること」
が必要な場合も多いですよ。
でも逆に、大目的のために、
「今生きている国民の生命と財産を没収すること」
が必要な場合は、そうすべきなのです。
そして、「そうすべきである」と認めなければ、自衛隊(軍隊)という暴力装置の正当性は担保されないのです。
あるいは、みなさん自衛隊と言うと、
「9条はあるけど、外国が攻めてきたら自衛隊に守ってもらわないと(汗)」
みたいなことは言いますけれど(そしてそんくらいのことは小学生でも思いますけれど)、それは軍隊を「外へ向けての力」としてのみ捉えた一面的な軍隊観というものです。
軍隊は、
X「政府による国家の統治を、外国勢力を排除して行う暴力的背景」
という意味合いもありますけれど、
Y「政府による国家の統治を、国内の他勢力を従わせて行う暴力的背景」
という意味合いも当然あります。
(あるいは、あるべきです)
要するに、自衛隊(軍隊)は、X「国外へ振るうことを想定した暴力」とY「日本国内で、日本人へ向けて振るうことを想定した暴力」があるとしなければ、論理的に存立しないはずなのです。
つまり、たとえば私が急に
「よし、俺、愛知県に独立国を作る!」
とて、日本の法律から超然して、勝手に武装して、愛知県を統治し始めたとする。
この時、法を根拠にこれを取り締まるのは、まず警察でしょう。
でも、万一、私の勢力が警察を打ち倒したとする。
その次に出てくるのは何か……という問題なのです。
つまり、こうした「統治的に、日本人に対して暴力を振るう必要がある」場合、「自衛隊が出てくると想定する」か「米軍が出てくると想定するか」という話です。
これは軍隊の治安出動というものですが、この統治的暴力がどこにあるかということが、日本の軍隊というものにおける最大かつ深刻な問題なのです。
そこが自衛隊にないというのなら、自衛隊は単なる
「今生きている1人1人の生命を守るためのもの」(公営用心棒サービス)
に成り下がってしまう。
ですから、我々は、まず「自衛隊(日本の軍隊)」というものが、
「日本国家の中央政府による統治の暴力的背景として日本人へ向けられる」(Y)
ことを認め、
「国家におけるこうした暴力的権限を、外国には干渉させないための国外への暴力」(X)
が求められるのだという大義の筋道を前提にしなければならないはずなのです。
そして、こうした暴力的中央集権性の位相に正統性を付与するのは、
「(19世紀以降)狭くなる地球の中で、天皇を中心とする文化圏(日本)を存続させる」
ということのみだということがわかられていなければならない。
それが、19世紀以降の「独立」ということなのです。
でも、そうではなくて、単に
「今生きている1人1人の生命を守るためのもの」
としての自衛隊を前提しているのなら、なるほど
「9条2項据え置きで自衛隊明記」
という安倍首相案は正しいでしょう。
しかし、自衛隊は「今生きている1人1人の生命を守るためのもの」ではないから、安倍首相の改憲案は間違っているのですけれどね。
(了)
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