コンサルは会社の害毒である③~ソウルメイトの思想 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日はソウルメイト様の寄稿コラムをお送り致します!

今回は「コンサルは会社の害毒である②~ソウルメイトの思想」の続編となります。

 

中野剛志氏の新著も紹介されていて、今回も勉強になること間違いなし!

 

連日、安倍ちゃん叩きに勤しむ私ですが、進撃メンバーのおかげで、進撃はこのように幅広いテーマを扱えております。

 

これがどれほど大きなことか。。。

 

それでは皆様もじっくりとご覧ください!

 

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『コンサルは会社の害毒である②』~ソウルメイト様

 

 

 

今回は、中村和己さんのご著作「コンサルは会社の害毒である」をご紹介する三回目です。


米国で繁盛する経営コンサルタント企業は、なぜか日本ではさして繁栄していない理由について中村さんは、次のように書いておられます。



──日本市場においてコンサルティング業界は目立つが、しかし、実際にはあまり繁盛していない業界である。

マッキンゼー、BCGといった企業群が目立つようになったのは一九八○年代から一九九○年代にかけてだが、この後のお試し購買が一巡してからも、コンサルの需要はちっとも定着していない。そもそも時の有名人であった大前研一氏(元マッキンゼー支社長)が書籍のヒットによって売上を伸ばした一九八○年代当時、経営コンサルティングの購入動機は「ウチの会社でも出来るようになるなら」というスキルの導入に関する思惑にあったという。外部からの提言という第三者地位を売りとするコンサル業界の思惑とは裏腹に、自社にノウハウを“我田引水”するために使われていたことになり、普及の当時から日本企業とは需給が完全にすれ違っていた。

現代においてもなお、「高いフィーでコンサルティングするくらいなら、ウチの社員を教育してほしい」というトンチンカンな要望が多いのは、日本企業が共同体であり、共同体に何もかもを貯蔵しようという思惑が抜けないからである。これでは「外部視点の導入」「外部プレーヤーとのイノベーション」といった第三者との健全なコラボレーションが起こるはずがない。業界の立ち上がりから既に三○年も経つが、日本企業は経営コンサルティングを何一つ理解しようとはしなかったし、実際に理解していない。現在でもコンサルティング・ファームというと、だいたいは「むかし使ったよ。高いフィーだったのに、全然ダメだったね」という悪いタイプの思い出話であり、驚くことにはそれが一○年以上も前の出来事だったりすることが多い。コンサルティング会社が数々の粗相を繰り返して来た事実もあり、それはそれで後述するが、仮にその過失を差し引いたとしても、日本企業の恨みの深さにも少し異様なものがある。

なぜ、こんなことになってしまったのだろうか?──その理由は、欧米と日本のコンサルの付加価値構造を記した図表が、露骨なまでに指摘している。

欧米にあって、日本にないものは多い。図を比べると「株主の圧力」「支配層のコネ」「解雇の決定」は日本にはほとんど存在しないかあっても影響が小さいので、コンサル市場の発展を支えることが出来ない。このせいでコンサル業界が大きく不利を被る影響は、三つある。


ひとつは図を見れば分かるように、コンサルが提供できる付加価値が小さくなってしまう。日本では解雇の決定をコンサルに手伝わせることは滅多にないので、コンサルは解雇の提言を通じて得点を稼ぐことが出来ない。株式市場がコンサルを信用することもないが、それは解雇のニュースがコンサルを通じて実現されると投資家が捉えないからでもある。また、支配層の持つコネの影響が小さいため、コンサルティング・サービスを買う理由も、コンサル企業へ転職する理由も、コンサルを入社させる理由も、コンサルの過去の失敗をもみ消す必要も、全て無くなる。

さらに日本には支配層の存在がなく、クライアント側の企業もまた長期雇用であるために、コンサル業界が繁栄するための基礎を成す「忘却効果」が得られない。日本企業では、仮にコンサルが一度でも失敗すればいつまでも覚えられ、彼らがクライアントの社史に刻んだ黒歴史を覆すのは難しい。「あの案件に二億円も出したのに、全てやり直しになった」「A社に頼んで失敗した」「B社に頼んで失敗した」「M社に頼んで失敗した」と日本企業の社員はいつまでも執念深く恨んでいるが、その案件の発注者のほうはクビにならないという、コンサルだけに責任をなすりつけるゆがんだ構図が成立している。つまり、「事業のリストラは許さない。解雇は提案しなくていい。失敗したら根深く恨む。担当者は免罪だが、コンサルは永久に有罪」というコンサルにとって悪夢に近い最悪の条件が、日本市場では成り立っているのである。

日本企業には強いリーダーが存在しない

コンサルタントは、「伝達」を強く好む。自信を持って、自信満々な態度で経営者に直言することを好む。仮に社長が好まなくても、その間違いを正すことを好む。傲慢にして徹底的に練り込まれたメッセージを届け、企業を変革することを好む。提言を研ぎ澄まされた少数の要素に絞り込むことを好む。しかし、それはCEOが一種の独裁政治を確立していない限り、あまり意味がない行為でもある。米国のように継承者を慎重に選び、長きにわたって巨大企業を統治する「王、あるいはリーダー」が統治する状況では有効な手法だが、日本企業にはその対象が存在しない。日本企業は集団で経営されており、特定の権力者を見出すことが出来ないからだ。

日本企業にいる社長の任期は四年程度であり、一種の持ち回りのように順送りで生え抜きの経営者を選んでゆく。経営者が退任したからといって、全役員が退任することもない。平均的な日本企業は「共同体経営」だから、コンサルの提言は特定のCEOに向けられるとも限らず、結局は再び集団討議の対象になる。日本企業の持つ共同体志向について、その要点を説明するならば、「ウチの技術で、ウチの人間が、ウチの工場で、ウチの力で、みんなで合意できるテーマを」という、何もかもを自分たちでやりたがる備蓄志向、集団コンセンサス重視の経営を目指すから、コンサルが望む伝達の対象である強いリーダーが存在しない。結果的にはコンサルから伝来してくるスキルと情報を共同体全体で吸収しようと、せいぜい共同体全体で学習して終わりになってしまう。

だから、「自信を持って伝達する」という劇場型のプレゼンは、誰にも刺さらない経営コンサルの独り芝居に終わってしまう。これがコンサルの使用価値が下がる大きな原因であり、ちまたでよく言われる「コンサルは整理しているだけ」「コンサルはプレゼンが上手いだけ」「見せ方で点を稼いでいる」といった批判につながっている。

本来はそのメッセージが一○○%機能すれば千金の価値があるのかもしれないが、メッセージを届ける先にいる権力者の力が弱いために、そうは捉えられないのだ。コンサルの側は権力者の次の一手を「変革」しているはずなのに、参加しているメンバーは表現技術だと勝手に解釈し、「たかが上手い表現のために、三○○○万円を払う気か?」と的外れな評価をしている。そもそも経営者が相手なのに、「勉強になるから」という訳の分からない理由で一堂に社員を集めてコンサルにプレゼンさせている事自体、経営コンサルティングという概念が日本では完全に崩壊していることを意味している。経営コンサルは権力トップのための意思決定支援であって、一般社員のための学習の場ではない。経営コンサルの偽らざる本音は、「どうしてここに平社員がいるんだ!自分の持ち場に帰れ!」だ。

日本市場ではコンセンサス需要が拡大しなかった

だから実は、日本で経営コンサルを好む層には、創業者が作ったオーナー企業が多い。創業者は自分の一言が周囲に与える影響が全てであることを熟知しているし、自らに権限が集中しているから、コンサルと相性が良いのである。日本企業の中でも欧米の経営スタイルに近いのはオーナー企業であり、創業者がいる企業であり、成長過程にある企業であり、そして、多くの高学歴エリートが新卒で就職することを嫌うタイプの、まだ不安定な企業である。

例えば、現在のユニクロを作った柳井氏は大前氏を仰ぎ、共著まで出している。ゴールを決めてから逆算し、猛烈な集中力を発揮して目標をクリアしてゆく柳井氏のやり方は、まさに欧米の教科書が教えるところの経営者そのものだろう。マッキンゼー日本支社の拡大に貢献した大前氏、BCG日本支社の拡大に貢献した堀(紘一)氏の著作を見ても、懇意にしている社長には創業者かワンマンタイプの社長を数多く確認できる。それは彼らが経営コンサルを実際に必要とし、それが上手く機能したからである。しかし、これは創業期から共同体経営に移行するまでの間に限られるから、創業者が退任した後の平均的な日本企業には、コンサルの利用を好む継承者が現れない。

伝達の対象となるプロの経営者が存在しないことは、経営コンサルが“浮く”原因にもなる。日本企業は共同体を基盤とする経営を率先しているために、トップの権限が強く、命令系統がトップダウン式になっている欧米企業とは統治システムが異なる。だから、日本の経営コンサルの現場は、ほとんど茶番劇の様相を呈してしまう。


その上陸からすでに半世紀も経過しているにもかかわらず、日本市場ではコンサルの需要がちっとも拡大しなかった。さらに興味深い現実は、日本のコンサルOBもまた、古巣のサービスをちっとも買わないという事実だ。

マッキンゼーのOBは二○○○年代の時点で六○○人を超えていた。BCGは二○一三年の時点で四一○人のOBがいる。その他A.T.カーニー、ベイン&カンパニー、アーサー・D・リトル、アクセンチュア、ローランド・ベルガー、類似業態としてみれば大手総研にいたOBは膨大な、万人単位の数に上る。彼らのOBがもし経営コンサルタントの素晴らしい価値を認めるなら、それこそアップオアアウトで卒業したOBたちの力だけで日本中でコンサルの購買需要が起こり、米国と同水準に達している。その普及率が上限に達するまでの時間は、十分にあった。

ここでわたしも、OBの一人だから告白してしまおう。経営コンサルに価値が無いことを、OBは誰でも知っている。だから、買わないのだ。──ここで「いや、そうではない」とOBが反論するなら、明日にでも外部コンサルを呼んでみろと返す。もちろん社内の反対があるから、ご無理だろうが。


──これまでに説明してきた通り、日本ではコンサルの用途が欧米とは異なるので、使用価値がかなり低い。コンサルティング・サービスは包括的なパッケージ商品として買うから、株式市場の反応や雇用リストラ、事業リストラの効果を含んだトータルの価値で評価される。しかし、日本の経営コンサルは「①分析と仮説」「②見える化」のところでしかカネが取れない。そして、コンサルが販売する「①分析と仮説」「②見える化」の価値は、実はそんなに高くない。従って、包括的なパッケージとして値付けされたコンサルの価格が不当に高いものとなり、仮にそれがコンサルOBであっても、事業会社内部での社内稟議を通せなくなる。つまり、簡単に言うなら「コンサルには、買うほどの価値がない」ということになる。────

 

 

中村さんは、ご自身が経営コンサルタントであったという経歴も手伝って経営コンサルタントという虚業の素顔と正体を暴いて容赦ありませんね。

経営のコンサルタントができる、という触れ込みで企業の独裁的な経営者に取り入ってあらぬことを吹き込んだ結果、その企業の業績が傾いたとしても、その企業で働く人たちにとっては理不尽な災難だとしても、まだ、災難は一企業にとどまります。しかし、もし、一国の政治指導者が自分を国家におけるワンマン社長のごときものと心得え、また本来、共同体であるはずの国家をあたかも企業のようなものと心得え、そして、国家経営については、ろくな見識も経験もない経営コンサルタントのごとき者を重用し、その食わせ者の言に基づいて国家を経営したら、どんなことになるでしょうか?わたしたちは、その惨憺たる結果の実例を小泉純一郎氏や安倍晋三氏の破壊的な政治政策としてよく知っているはずです。おかげで日本の経済も産業も停滞を余儀なくされ、日本人はずいぷんと貧しくなってしまいました。言葉巧みにこれら独裁的な政治指導者に取り入った経営コンサルタントまがいの経済学者やほかでもない企業経営者そのものが選挙等の民主主義的手続きを経ることなく、したがってなんらの公的資格を有することなく公共のためにおこなわれるはずの政治や行政を自分たちの利己的な利益を獲得するためにゆがめてきたのではなかったでしょうか?


さて、経済評論家の三橋貴明さんは、国家というものと企業というものとでは、その存在理由も主たる使命も異なる、とかねてより主張しておられます。私企業の存在理由と目的は、端的にいえば利益を獲得すること、儲けることです。しかし、国家や社会の存在理由と使命は、儲けることではなく、それに属する者、ひとたび仲間とみなした者の生存と平穏で豊かな暮らし、すなわち幸福を実現することこそが存在理由であり、目的であり、使命である、と三橋さんは力説しておられます。


つまり、国家や社会というものは、ごく当たり前に共同体なわけです。ところが、長期的に社会的に有用で有益な財やサービスを生み出しつづけることで社会やそれに属する者たちに貢献する企業というものも優れて共同体的であることを中野剛志さんは、自著「真説・企業論」の中で次のように書いておられます。

 

 



──画期的なイノベーションというものは、一○年、あるいはそれ以上という長期の時間を要します。そして、イノベーションの源泉たる暗黙知を創造し、蓄積し、そして伝達するには、クローズド(閉じられた)で濃密な人間関係を長期にわたって保持する必要があります。それが意味するところは、「イノベーションを起こしやすい活力ある企業は、クローズドで濃密な人間関係を形成するために、従業員の長期雇用や社外との継続的な取引関係を重視するであろう」ということです。

この長期雇用と継続的な取引関係の重視は、かつて「日本的経営」の特性として評価されたものです。──

中略

さて、以上の優れた経営学者や労働経済学者たちの議論を踏まえた上で、もう一度、冒頭の(経営コンサルタントの)富山和彦氏の議論を思い出してみましょう。

「これまでの日本企業は、クローズドな同質性の高いシステムの中でノウハウを蓄積することをよしとしてきました。終身雇用で人材の企業間移動がなく、社員同士が阿吽の呼吸で仕事をする」
「クローズドなシステム、つまり同じ人員、同じ戦略上でビジネスを進めている限り、連続的な改善・改良はできても、イノベーションは生まれない。そこでは『オープン・イノベーション』がカギになります」

この議論は、イノベーションというものに関して根本的な思い違いをしているように、私には思われてなりません。

個と共同体

富山氏は、イノベーションは、「個」であるイノベーターから生まれるものであると考えています。そして、企業を「共同体的な性質を強くもっている集団」と位置づけています。


「個」は、「共同体的な集団」である企業からしたら「異物」ですが、その異物である「個」を取り込まなければイノベーションは起きないというのです。

イノベーションを生む「個」と、「個」を異物とみなす「共同体的な集団」。この二分法は、日本経済批判の通説になっています。


「日本では、スティーブ・ジョブズが出ない」などという愚痴をよく聞きます。ジョブズという強烈な個性からイノベーションが生まれるのに、同質性の高い共同体的な集団を重視する日本社会は、ジョブズのような強烈な個性を排除しがちである。出る杭は打たれるというのが、日本という閉鎖的な村社会の習わしなのだ。そんな日本ではイノベーションは生まれない。だからイノベーターとなる強烈な個性の持ち主は、アメリカに行ってしまうのだ。

このような日本文化批判にまで及ぶ日本経済批判は、実に根強い人気があります。富山氏もまた、この日本批判の図式にのっとっているようです。しかし、この「個」VS「共同体的な集団」という単純な図式こそが、イノベーションの本質を見失わせる元凶 だと私は強く思います。

そもそも「共同体的な集団」と言っても、企業は血縁や地縁で結ばれた共同体とは違います。業績が悪いというだけで簡単に従業員の首を切ったり、取引先を頻繁に変更したりしない企業が「共同体的」だと呼ばれるわけです。共同体的な企業とは、限定的で長期的な雇用関係や取引関係をもつ企業のことなのです。

武石、青島、軽部、延岡、西野、野中、竹内、小池といった、これまで参照してきた研究者たちが明らかにしたのは、そうした限定的で長期的な関係を重視する「共同体的な集団」こそが、イノベーションを生み出すということでした。そして、こうした研究者たちの議論から明らかになることは、共同体的な集団は、イノベーターとなる「個」わ排除するものでは必ずしもないということでした。もっと言えば、イノベーターとなる「個」を育て、そして評価するためには、限定的で長期的で濃密な人間関係が必要だということでした。つまり、共同体的な集団でなければ、イノベーターとしての「個」を生み出し、活用することができないのです。

それは繰り返しになりますが、イノベーションの源泉となる「暗黙知」──「ノウハウ」と「思い」──というものを育て、評価するためには、「個」と長く付き合わなければならないからなのです。


同じ職場で長く働く同僚とは、ある仲間意識によって結ばれ、家族ほどではないにせよ、かなり共同体的な関係にあります。しかし、そうであるからこそ、その同僚の性格や能力がよく分かる。そいつの食べ物の好き嫌いからネクタイの趣味まで、分かるようになる。つまり、場所や経験を長く共有したからこそ、その人の個性が分かるのです。そうだとすると、「個」は「共同体的な集団」とは対立しません。むしろ逆に、「共同体的な集団」の中から、「個」が育ち、「個」が発見され、そして評価されるのです。

いやいや、そうは言っても、「個」を排除するような「共同体的な集団」というものもあるではないか。そう思われたかもしれません。確かに、「個」を排除さ、圧殺するような企業はあります。しかし、そのような企業は、本当の意味で「共同体的」と言えるのでしょうか。

共同体とは、家族や故郷に典型を見るように、それに属する個人の愛着の対象であり、アイデンティティの一部です。その集団に属することに愛着を覚えないようであれば、その集団は共同体あるいは共同体的とは言えません。例えば、夫が妻子に暴力を振るうようでは、家庭は崩壊して、共同体ではなくなってしまうのです。

さて、自分の個性を排除し、圧殺するような社員は、その企業に愛着をもつでしょうか。もちろん、もちません。愛着や帰属意識をもてないような企業は、共同体的とは言えないのです。


共同体的な企業とは、社員が勤務することで愛着や一体感を覚えるような企業のことです、なぜ愛着を覚えるのかと言えば、それは、その企業の上司や同僚や部下が、自分の個性を認知してくれるからです。社員を「個」として認めるような深い人間関係のある企業こそが、「共同体的な集団」なのです。

だから、「個」と「共同体的な集団」は対立しません。それどころか、両者は密接不可分なのです。

このことを理解するために、企業という共同体的な集団に属しない「個」がどう評価されるのかを想像してみてください。人の個性は、外形から短期間で理解できるものではありません。長い付き合いなしに人を判断するためには、その人の資格や学歴、あるいは稼ぎといった外形標準で決めつけるしかありません。しかし、人間を、学歴、資格、稼ぎなどという形式だけで判断するのでは、「個」を尊重することにはならないでしょう。

学歴や資格といった外形標準で人間を分類し、振り分けるということは、言うならば、人間を「標準化」し、「モジュール化」するということです。つまり、「君でなくてもいいよ。他に取り換えがきくから」というように扱われるということです。


このように共同体的な集団を解体してオープン化すればするほど、「個」は見失われていくのです。そして、イノベーションも生まれなくなるのです。イノベーションを生み出したければ、企業を本当の意味で「共同体的な集団」へと変えることです、そして、社外のアイディアを取り入れる場合には、社外との関係も共同体的にすることです。

まさにシリコンバレーという地域共同体がそうであるように。───


経営コンサルタントのような企業の中・長期的な発展と成長にほとんど役に立たないくせに高額の報酬をふんだくるような虚業が日本において隆盛しなかったことの最大の理由の一つが、日本企業が総じて共同体的な集団であったからでしょう。そして、それを理解しないからこそ経営コンサルタントは無能で無力であったとも言えるのではないかと思います。


さて、短絡的に考えれば、〝儲けること〞が唯一にして最大の存在理由であり、存在する目的であるはずの企業ですら、そのもっとも成功したものは共同体的な集団であるとするなら、社会そのものや国家というものは、この上もなく共同体的な集団に他ならないでしょう。そして、企業というものがもっとも健全に営まれ、力を発揮するためには、共同体的な集団である必要があり、しかし、そのことを理解できないがゆえに経営コンサルタントや経営コンサルタントのような思考パターンをもつ人たちが、企業の健全な運営という観点からは、役立たないだけでなく、有害ですらあるとい事実は、国家を利益の獲得を至上命題とする企業と同列に考えてはならず、また、そのように運営してもならないということを疑いの余地なく告げているように思います。そして、いわゆるわが日本国の〞失われた二十年〝は、日本という国が誤った仕方で運営されてきたからに他ならないと思います。

繰り返しになりますが、「コンサルは会社の害毒である」のみならず、経営コンサルタントや経営コンサルタントのような思考をする人たちは、「国家や社会の害毒である」と評してよいと思います。


また、中野さんは「さて、自分の個性を排除し、圧殺するような社員は、その企業に愛着をもつでしょうか。もちろん、もちません。愛着や帰属意識をもてないような企業は、共同体的とは言えないのです。共同体的な企業とは、社員が勤務することで愛着や一体感を覚えるような企業のことです、なぜ愛着を覚えるのかと言えば、それは、その企業の上司や同僚や部下が、自分の個性を認知してくれるからです。社員を「個」として認めるような深い人間関係のある企業こそが、「共同体的な集団」なのです。だから、「個」と「共同体的な集団」は対立しません。それどころか、両者は密接不可分なのです」と書いておられますが、これは、あらゆる共同体的な集団とそれに属する個人について当てはまることだろうと思います。つまり、社会や国家のようなものとそれに帰属する個人についてもそのまま成立するものだろうと思います。こういう視点から、愛国心というものを捉え直すことは、必要なことでもあり、有益なことでもあるだろうと思います。

 

 

(了)

 

   

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