福祉に関わる人たちへ -7ページ目

福祉に関わる人たちへ

人生はどれだけ多くの気づきを経験したかで、如何様にもなるものです。誰かが言っていますよね。「人は思うようにならないと言うが、そう思っているという意味では、思い通りになっている」と。

おはようございます、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。 


飽き症 の僕が今回で40投稿目。よく続いている・・・


前にも書いたかもしれないが、まあ、この問題は二元論、つまりYESかNOかで答えを出してはならない。


このブログのタイトルや僕のペンネームからして、「支援者が変われ!」「悪いのは支援者だ!」
そんなふうにとれなくもないだろう・・・


しかし、根本には僕自身、障害者も支援者も責めるつもりなんてありゃしない。



そんなの無駄だから。


僕は、政治のことは無知だから深く突っ込めないけど、日本の首相が変わったり、政権交代があると
決まって、当事者を責め立てる国民や政治家がいる。



不思議でならない・・・




例えば、毎月20万円のお給料をもらっていたとして、夏のボーナスで30万円もらえることがわかっている
お父さんがいたとしよう・・・



そこでお父さんが子供に「
PS Vita」(約3万円)を買ってあげる約束をした。



どこにでもある普通の会話だ。



しかし、会社の経営難でボーナスはカット、しかもエアコンと冷蔵庫が故障!

お父さん、困ってしまった・・・



泣く泣く子供に頭を下げ、謝った。


子供は泣いて怒った・・・「お父さんの嘘つき!」と・・・




どうだろう・・・

大人も子供といっしょ、本当にいっしょだと感じてならない。

下手に無駄な知識があるからもっとたちが悪い・・・




リーダーたるもの、国民の安心を確保するために時には大きなことを言わざるを得ない。




もしも、あなたの結婚相手がプロポーズの時に「多分ですが、あなたをしあわせに出来ると思います・・・」

なんて言われたらどう思うだろう?



「あなたをしあわせにします。」こう言い切るということで、その人の覚悟を感じるから惹かれるのだ。



「それくらいのことはわかってあげようぜ」と思う。



既存の社会では障害者は弱者なのだろう・・・

しかし、何をもって弱者というのか?



お金を稼げる者が強者というなら考え直した方がいいだろう。




最近、ネットでもにぎわっているムカヒ大統領のスピーチで、

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、
無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」




スピーチはここから>>>
http://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/ 


これには、僕も同感。



支援者は、障害者を弱者として見ることを前提にしている傾向を感じる。

果たしてそうなのだろうか?支援者のみんな、あなたは障害者よりも強いのですか?
障害者よりも生き方を知っている強者なのですか?

障害者のみんな、あなたは本当に弱いのですか?
支援者がいなくなったら、すべてが終わってしまうのですか?



周りのみんながそうであっても、あなただけは逆流して流れてほしい・・・
支援されるのがあたりまえになったら、お互いの立場は変わらないよ。







 








おはようございます、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。 


最近、思うことがある。

というよりずっと思ってること・・・



それは、前回の記事の中にも真意は埋め込んでいたのだが、
障害者が障害者であり続ける理由、それはやはり福祉の存在。


例えば専門書。

「自閉症とは?」「うつ病とは?」などなどあげればきりがない。



でも、この本を誰が手に取るのか?



血液型診断や手相占いなどとは明らかに違う。



手に取るのは、福祉に関わる人か当事者・家族だろう。




何のため?

そう自分のため。



人間は悲しいかな、自分のためにしか行動できない。



「誰かのために・・・」なんて働く人の深層心理には、自分を認めてもらいたい欲望がある。



真の意味で「誰か(すべて)のために」そう思える人間は、

そもそも「○○のために」などという発想はない。



「○○のために」 は自我がそう思わせているだけの都合のいい言葉にすぎないから・・・



聴覚障害の方と接したことがあるだろうか?


また、手話通訳の方が間に入って話をしたことがあるだろうか?




確かにこうすることで話は通じる。


しかし、それで互いが互いを感じることができるだろうか?


話は通じてもこころが離れているから、感じられない。


言葉は通じにくくても身ぶり手ぶり、筆談、ジェスチャーで互いが接することで互いの距離は近くなる。


このことは、障害者・企業・支援者の三角関係の中でもいえる。



支援者は、障害者と企業をつなぐことが我々の仕事だと胸を張るかもしれない。


でも僕はそう思わない。逆だ。


外面だけつないでも意味はないから。



つくづく思う・・・


障害者を頭で理解しようとする支援者よりも
障害者のことを知ろうとする人間の方が本当の支援者であると。


もしかすると支援者のみんなも最初はそうだったのかもしれないな・・・
























こんばんは、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。 


昔、僕が障害者の方々と関わるようになった頃、
彼らは純粋で人間のあるべき姿なのかもしれないと思っていた・・・


でも、そうじゃない。


確かに知的障害の方や自閉症の方の中には、独特の世界観を持って、
世の中に洗脳されていない、ある意味純粋なひとがいる。


でもそれは、あるべき姿?ではない。





あなたに聞こう。



ひとは生まれてきたことに意味があると言う。




この言葉が好きなひとも嫌いなひともいるだろうが考えてほしい。




障害者は何の意味があって生まれたのだろう?
なぜ、障害者になったのだろう?





もちろん、これはひとはなぜ存在するのか?
というくらいな問いなので、答えなどない・・・









でも、僕は・・・僕はこう思う。




「気づく」ため。




究極のところ、人間はみな、つながっていてひとつなんだ。


「あいつのここが嫌い、あそこが気に入らない・・・」


そういうのは、みんな自分の受け入れられないコンプレックスのようなものとリンクしていたりする。




そう、自分で自分を見ているから反応してしまう。




こんな親を見たことはないだろうか・・・



障害者を見て、顔を歪めながら、
まるで犯罪者でも見るように我が子に関わらないように仕向ける親を。


話がそれてしまうが、「犯罪者」にしてもしかり。


ひとは、ニュースを見ると「酷いことするひとがいるもんだ」と加害者を軽蔑する。



しかし、この見方が障害者にも共通するのだ。



加害者はなぜ加害者になったのか?

罪を犯したかっただけの犯罪者などいるだろうか?



そこには、動機がある。

動機の向こうには、原因がある。



それらの何ひとつ知りもしないのに、
ただただ軽蔑して、人間のくず扱い・・・




僕に言わせれば、「変わんないよあなたも」




話を障害者に戻すが、

「空気が読めない」
「言葉が話せない」
「理解力が低い」
「適応能力が低い」


よく障害者について言われたりする。



僕に言わせりゃ、

「空気読んでるから凡人で終わるんだよ」
「言葉でしか伝えようとしないから、こころが貧しいんだよ」
「あなたのいう理解力って何?伝え方が雑なんだよ」
「適応する必要があるの?型にはめたいだけだろ!」




大切なのは、自分はなぜそう思うのか?そう感じるのか?




障害者も僕らも自我に囚われているだけのいわばコントロールされる小さな生きもの。




何に気づくか、それしかない。




それは何か?僕はブッダじゃないからわからない・・・

でも、どうせ生きていくなら、そこらへんを感じて生きたい。



少なくとも僕は。