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福祉に関わる人たちへ

人生はどれだけ多くの気づきを経験したかで、如何様にもなるものです。誰かが言っていますよね。「人は思うようにならないと言うが、そう思っているという意味では、思い通りになっている」と。

おはようございます、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。 


我社も障害者雇用の規模が大きくなって、特例子会社の設立となりました。

僕が、支援者だったころ・・・いや支援者と呼ばれていた頃、「特例子会社」こそ差別じゃないのか?
そう言った人がいました。

あなたはどう思うだろう?


ある意味ではその通りだと感じる・・・


ある意味ではというのは、差別って何?ってこと。
意味を調べると、
 【特定の集団や属性に属する個人に対して特別な扱いをする行為】とある。

では、特定・特別って何?となってくる。

加えて、「特例子会社」って何?


そんな堂々巡りの議論・・・


くだらない。



これらの言葉に敏感になっている人間の背景を観察しないといけない気がする。



今では、「個性」とか「オンリーワン」とかいう言葉ですら説得力に欠けてしまう・・・
そんなふうに感じるのは僕だけだろうか?



では、先述した差別って本当にしてはいけないのだろうか?
差別って悪いことなのだろうか?



言葉が独り歩きして、本当の意味すら誤ってきた人間・・・



自分が違和感を抱いた時に、そこから何に気づくかが大切。

何かに責任を押し付けて批判することほど簡単で無意味なことはない。




所詮は誰しも自分を認めてもらいたいだけなんだ・・・
じゃあ、それはどうしてか?って考えないといけない。

そして、それに気づかないと死んでも死にきれない・・・(輪廻転生ってやつ)



僕は支援者に違和感を抱いたから辞めた。
自分のことを誰も知らない地で生きたいと思ったから上京してきた。
普通や特別って言葉に違和感を持ったから今も自分の思い込みワールドを検索中。


欲望やプライド、過去の経験を信じきった自分・・・うじゃうじゃいた・・・



それを見てから僕は変わった。

景色も変わった。




「特例子会社」

会社のため?お金のため?
だとしてもいいんじゃない。
何かアクションを起こしたことが大切じゃないかな。


そこから何か新しいことに気づけるんだから・・・











おはようございます、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。 



今日は、久々の更新です・・・

まあ、待ってるひとはいないかもしれないけど(笑)・・・



最近、障害者の採用が活発で、会社もバタバタしている。

そんな時、起こりがちなのは人事と現場のコミュニケーション問題。




いろんな会社を見てきたから、そういった問題には慣れっこだ。

だが、面白いといってはいけないのかもしれないが、それぞれの立場で考えると実に面白い。



人事は、やることだらけでまずは、会社のために障害者を雇うことを第一に考え・・・

現場は、売上を上げないと上から言われるから、仕事を作業としか見れなくなり・・・
障害者雇用なんて二の次・・・


双方には溝が生まれる。



そこに障害者は放り込まれる・・・





また、ある障害者の親御さんはこう言う・・・

「そんなにポンポン入れて大丈夫なんですか!?」

ある支援者はこう言う・・・

「次、採用の予定はいつですか?またお願いします。」



・・・



企業の実情だ。




でも、それを解決させる方法は、人事でも現場でも支援者でも障害者の親でもない。


「障害者本人」




「障害者雇用を進めていかないと・・・」といろんな固定観念の中で動かされる会社よりも、

「障害者を雇ってもらえればうちの仕事が増える・・・」と支援を仕事としか見れない支援者よりも、

「売上を上げないと評価が下がる・・・」と自分を認めてもらうことしか考えない従業員よりも、


障害者が働く姿こそが様々な状況を変化させる。



別に障害者を美化させるつもりはない・・・


ひとは自分の知る世界でなら対応できる。

障害者雇用や障害者、支援者について知らない世界だから多くのひとはそれらを煙たがる。



でも、そんなひとが身近で障害者と働き、その障害者が自分のことを頼ってきたとしたら・・・
一生懸命に働く姿を目の当たりにしたら・・・

障害者という概念はいとも簡単に変わる・・・違うだろうか。



障害者に関わるひとたちは忘れてはいけない。

あなたが誰かのために、もしくは何かのために行動することは、逆に混乱をさせているということを。



まずは、知ってもらうこと。そこに障害特性だの配慮事項だのを最初から並べることなんて不必要。

「転ばぬ先の杖」は、捨てちゃえばいい。



そこからじゃなきゃ、何も変わらないよ、この社会。

















こんにちは、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。 


「我々が問題を解くためには、その問題が生じた時とは異なる思考をもたなければならない。」

アルバート・アインシュタイン


障害者、支援者の問題も、世の中で騒がれる問題も二元論で見るから、自分とは異なる思想を持った
相手を責め立ててしまうだけの、愚かな行動しか取れない。

昨今のニュースでも原発問題で当事者がこう言った・・・

「原発反対と言うと経済を知らないとか言われますが、それでも怖いんです。」



こころに響く言葉だった・・・




なぜ、原発が必要なのか?なぜ、原発反対なのか?



もしかすると、互いの気持ちを理解しているひとも中にはいるはずだ。




「・・・それでも怖いんです。」
正直な言葉だと感じた。 




ひとの行動を妨げるのは、不安要素。



もしも、東電や国がこう明言したらどうだろう?


「私たちを信じてください。あなたの税金を20%に引き上げて生活を制限することはしたくありません。原発は安全です。
しかし、もしものことがあれば、24時間以内に国が100%責任を持ち、他県での新生活を移動からすべて負担します。
私たちの命を懸けてもあなたの命は必ずや守ります。」



少しはこころが動くかもしれない(わからないが・・・)。


「怖い」という感情をやわらげるには、どうすればいいかを国は考えなければならない。




自分が相手を責める発言をすれば、本心とは違う、相手を責める発言をしてしまう。
受け入れ合うなんて、いつまでたっても出来ない・・・悲しいかな、それが今の日本・・・




障害者問題も、よく似ている・・・と僕は思う・・・



実際にあったことだが、

障害者の方が体調が良くなかったため、午前が終わった段階で帰ってもらった。

そんな明くる日、僕は障害者の親御さんからこんなことを言われたことがある。


「うちの子は自閉症なんです。もっと早く帰してあげてください・・・(帰って寝込んで40度の高熱が出たとのこと)」


「自分で言うことは出来ないから、察してやってくれ!」という意味だろう。





わからなくはない・・・しかし、きっぱり言わせてもらった。
「ここは、職場です。配慮はしますが、特別扱いはしません。」と。



「帰るか?」「もう少し様子見てみる?」と度々本人に声をかけて確認しての決断だったからだ。




この場合、両者が使う言葉の最善は何だったのだろうか?


あなたが、親御さんだったら?

あなたが、僕だったら?


考えてほしい・・・




「うちの子は自閉症なんです。」その言葉がひっかかった僕がいたのは間違いない。


「あきらめんなよ、おかあちゃん!」「それでいいのかよ、おかあちゃん!」



本人の顔を見ながらそう思った。


そして、こう思う・・・


「我々が問題を解くためには、その問題が生じた時とは異なる思考をもたなければならない。」

アルバート・アインシュタイン



ひとは安全=自由を好む。



自由自由と声をあげれること、それ自体が自由だとも気づかずに・・・