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福祉に関わる人たちへ

人生はどれだけ多くの気づきを経験したかで、如何様にもなるものです。誰かが言っていますよね。「人は思うようにならないと言うが、そう思っているという意味では、思い通りになっている」と。

おはようございます、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。





しあわせも自由もなるものではない。




それを感じられるかどうかなのだから。







でも、どうしたら感じられるのだろうか?









僕には、大切なパートナーがいる。



本当の家族といるよりも心地いい。






人は、たったひとりとの出逢いが人生の地図を違ったものにする。








でも、パートナーであろうが家族であろうが、大切な人の存在が依存であってはならない。







僕らは、



「ずっと一緒にいようね」


なんてことは言わない。





人が離れることで心も離れるなら、それはパートナーではない。





お互いがお互いの持つ力を、最大限に出せる環境をお互いが望む関係こそが本来のパートナーだと思っているから・・・







この人がいなければ・・・

この仕事を失ったら・・・

お金が一千もなくなったら・・・




依存しているうちは、自由ではないだろう。





真の成功者は、一文無しになっても、何度でも億万長者になることが出来る。

この世の仕組みを知っているから。




僕たち人間の多くは、ガラス細工のようなものなのかもしれない・・・



壊れないように、壊れないように、自分を大切に守りながら生きている。



それが、不自由なのだと気づかずに。






何を恐れているのだろうか?






何を守ろうとしているのだろうか?









今はガラス細工でも、



何度も何度も壊して、作り直していくうちに、二度と壊れないダイヤになるのかもしれない。




・壊すことを恐れる=不自由
・壊すことを恐れない=自由




































































おはようございます、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。





成功・・・





成功とはなんだろう?






少し考えてみよう。





①自由に生きること
②お金持ちになること
③地位・名声を築くこと




大きくこの3点でしょうか。






いちばん曖昧なのが①






自由ってなんだろうか?






指導する人がよく、「社会に出て困らないように」などと言い、教え子に指導する。
障害者の支援者も同様だ。





本心なのだろうか?




僕は思う。



教える側も本当のしあわせや成功の意味を知らないのだと。










学校で勉強して、大学を出て、就職して、結婚して、家族を作って、家を買って、長生きして、孫の顔を見て・・・




これは、自由?







僕らは、電車じゃない!

決められた線路に乗っかって、決められた駅に止まって、終点まで行くのが目的でもない。







好き嫌い、正否、二元論で話している以上は本当のしあわせも成功もない。











【質問】

あなたは、結婚していますか?









している人は、なぜ結婚したのでしょう?















この質問にはっきりと答えた人はいない。


あなたはどうだろう??







そう、結婚に限らず、よくわからないけど、「それが普通でしょ」「それがしあわせでしょ」

と思って(正しくは思わされて)生きている。







簡単にいえば、それを脱しない限り、成功も自由もないのだ。







「社会に出て困らないように」





僕は嫌いだ。








社会に出て困らないように、世の中の普通を埋め込むなんて僕は絶対にできない。








本来、僕らの心には、自由の世界が広がっているんだ。

それを、成長とともに徐々に小さなちいさな領域に縮めていくのが、今の人間。









その自由の世界を持ち続ける、あるいは、取り戻すことが本当の成功、本当のしあわせだと僕は思う。






























































おはようございます、「障害者じゃなく、支援者が変わろう!」です。




僕らは、洗脳されている。

学校を出たら、どうして就職活動をするのだろう?



企業に雇われることがなぜ常識なのだろう?





世の中には99%のコントロールされる人間と

1%のコントロールする人間が存在する。




常識をぶっこわせ!!!






ある方が書いた「人間になるとき」という文章を紹介しよう。





今からわずか十数万年前、アフリカで画期的なことが起こった。

エチオピアで採れた黒曜石が、そこから非常に遠い場所に
運ばれていったのである。

あるいは、ナイジェリアで採れた貝殻が、なんと200キロも離れた
内陸部に運搬されたりもした。

これだけ聞いても、何のことか、何が画期的なのか、
分からないかもしれない。

しかしこの事実は、人類史上に燦然と輝く、余りにも画期的な
事実なのである。

今回はこの話をしてみたい。


そう言えば、今(厳密にはほんの一瞬過去だが)、
僕の右手の下にはマウスがある。

マウスという名前はもちろん「ネズミ」からきているが、
ぱっと見た感じ、それはネズミというよりは単なる石ころに近い。

どこか河原に行って、大きさと色が似ている石ころを拾ってきたら、
遠目には区別がつかないかもしれない。

しかし、この石ころとマウスの間には、あまりにも
大きな隔たりが存在する。

石ころは、例えば投げたりすることができる。

投げて鳥を仕留めたり、木の上の実を落としたりできる。

場合によっては武器にもなる。

その「働き方」は非常にシンプルで、だれでも見れば
すぐに理解ができるものだ。

一方でマウスは、右クリックだ左クリックだと操作方法は
パソコンを使う人なら大体の人が知っているが、しかしその
「働き方」は極めて複雑で、おそらくほとんどの人が理解できない。

その証拠に、

「河原に行って石を拾い、手斧を作りましょう」

と言われれば誰にでもできるが、

「今からマウスを作ってください」

と言われたら、地球上の誰にもその要求を満たすことができない。

それはマウスの働き方の原理を知らないからだ。

「誰にも」というのは誇張ではなく、実際にそうである。

例えば、マウスの素材についてどれだけ我々は知っているだろうか。

その素材の作り方、原料、原料の産出地域、産出方法、運搬方法、
加工方法などを知っているだろうか。

それらすべてを知っていたとして、実際に行うことができるだろうか。

素材の組み合わせ方、デザインコンセプト、電気系統、
レーザーの原理、その他無数の技術が組み合わさってマウスが
できている。

一体どの程度我々はマウスについて知っているだろうか。

操作方法「しか」知らないのではないだろうか。

この世の誰もが、これらの知識を全て同時に持っていることはなく、
つまり一人でマウスを一から作ることはできない。

しかしマウスは一般に普及し、誰もが「当たり前」に
思っている。

なぜこういうことが起こるのだろうか?


とは言え、よくよく考えてみると、このことは別段
「珍しい」ことではないことがわかる。

むしろ、現代社会においては、一人の人が一から十まで
すべて原理を理解できている事柄はほとんどない。


我々はあらゆることを知らないが、あらゆることの「断片」を
知っている。

我々は何も知らない反面、すべてについて「少しだけ」知っている。

そういう時代になっているのである。

そしてこの現象を起こした原因は、


広い意味での交換
~~~~~~~~~~~~~~~~


である。

交換を通して、人は全く未知のものを「結果から」受け入れることが
できるようになった。

マウスを作ることはできないが、ほんの1000円程度と
「交換」してもらうことができる。

そうして「結果としての」マウスを手に入れ、自分の人生を
より快適にすることが可能になった。

現代社会はこういう様々な意味での「交換」を土台に
成り立っている社会なのである。


この「交換」は、たとえ物々交換であっても、
あるいは情報交換であっても、実は自然界においては
限りなく稀な文化であることが分かっている。


Ridleyも指摘するように、たとえばチンパンジーなど、
親から子へ、道具の使い方や食べ物の見つけ方など
ある種の文化を伝達していく生き物はいくつも確認されている。

しかしながら、


グループ間の文化交流が起こるのは人間だけ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


ということも同時に確認されているのだ。



我々人類においてもそれを行うようになったのはわずかに
ここ20万年以内くらいのことであり、それが冒頭に記した
アフリカで起こった奇跡であり、これが現在確認されている、
人類最古の交換の証拠である。



例えばネアンデアルタール人には感情があり、仲間を慈しむ心があり、
火を使って調理をし、埋葬の記録も残っていて、ついこの間まで
人類の直接の祖先だと思われていた。


しかし骨の遺伝子鑑定の結果、我々(Homo sapiens sapiens)の
直接の祖先(Homo sapiens)ではないことが決定的となった。



我々よりも脳みその容量が大きく、芸術活動すら行っていたと言われる
ネアンデルタール人であるが、しかしそんな高度な文化を持っていた
彼らですら行っていなかったこと、それが、「交換」なのだ。


彼らの遺跡からは、現在のところ他グループと何かを交換した証拠が
出てこない。


彼らが使っていた道具はすべて「地元産」のものであり、
食べ物も同様である。



自分の行動範囲で獲得できる範囲のものしか身の回りにない生活だった。



彼らは自分の所属するグループで一生を終える、
ある意味で必要十分なライフスタイルを持っていたと言えるだろう。


話をマウスに戻そう。



このマウスは、僕がパソコンを使い始めてから何個目のマウスか、
もはや定かではない。



おそらく10個以上のマウスを使ってきたはずだが、そうすると
1年に1個くらいは買い替えている計算になる。


パソコン自体、1年か2年で買い替えてしまう。


3年以上使うと、経験上いろいろと不安になることが多いからだ。


これはよく考えると驚くべきサイクルの短さである。


一方人類の歴史を見てみると、150万年前に使われていた
石斧は、その100万年後も変わらず使われていた。


3万世代以上にわたって同じものを作り続け使い続けるということは、
その間文化的な発展がほとんど見られず生活スタイルもほとんど
変わらなかったということを意味する。


100万年間も同じもので事足りていた時代と、今のように
1年で買い替えないと不安や不便を感じてしまう時代と、
何が変わったのだろうか。



何が起こると、こんなに急激なサイクルの短縮、すなわち


急激な進化
~~~~~~~~~~


が起こるのだろうか。



・・・などと、必要以上にくどく問いかけてみたが、
答えはすでに記している。



「交換」がそれであり、もっと言えば「アイディアの交換」が
それである。






僕らは、社会の断片を見てしまうと縛られ続ける。



今は無力でも、この世のシステムに気づいた時、少しずつ動き出す。きっと。