義人 | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ルカ
「18:9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

 

自分自身を正当化したついでに、

差別偏見なるものを持ってしまうのは、

パリサイ人同様、マサキチも同罪であます。

 

神様を信じていることが

何か、特別な人間であるかのように感じてしまうことも、

神様を信じていない人に対する差別偏見を持ってしまうことも、

マサキチ自身の内側にある罪(偏見)でしかない。

昨日は、聖よく生活できたと思っている内心にも、

自己へのうぬぼれ、他者への見下しが含まれよう。

 

よくアメリカ、ヨーロッパ、パレスチナでもそうだが、

日本人への差別感や、

彼等自身が特別な存在である等、

そのような偏見を見たり、聞いたりもする。

パンデミックの時など、ガザの子供たちが、

日本人を「コロナ・コロナ」と

バカにしていたユーチューブを見たりもした。

 

しかし、同じような差別偏見を日本人も日本社会において持っていないだろうか。

たとえば、大相撲では何かモンゴル出身の力士が差別されているようにも感じる。

部屋が取り潰された、親方など、

誰も擁護する日本人がいなかった。

日本では、クルド人とか、中国人や、韓国人、イスラム圏の人々とかに対する、

何か、差別偏見を持ってやしないかと思うこの頃です。

バイデンは、日本を中国と同様な排外主義だと言ったが、

(もちろん、その意図は直接ではなく、外国労働者を増やし、GDPを上げろと言っているのだろうけど、)

そのバイデン自身も、差別主義の過去を持っている。

白人は白人で自分たちこそが、一番だと思いやすい。

 

しかし、日本では、高度成長を経て、

ギブミーチョコレート時代のようなかつての白人文化へのあこがれは薄れ、

日本人こそ、一番優秀な民族だと勘違いするように変えられて行った過去がある。

 

マサキチは、できるだけ、

町中で子供を連れているインド人とかイスラム圏の家族とか、

解体業者で働く外国人とかに、

軽く会釈したり、

子供には笑顔を作って、できるだけ手を振ったりする。

それは、マサキチ自身のうちにある差別と偏見を消したいがためでもある。

ハルクホーガンのように、

「イチバーン」ふるい~

と勘違いしないためにも、

マサキチにできる唯一の自覚の現れでもある。

在留異国人を大切にしたい一心だ。

マサキチ自身が、何か勘違いをしている無意識の自分を払底したいのだ。

 

よく謙遜ごっこという祈りの問題が指摘される。

「神様、私は、本当に罪深い人間です。」

と祈れば、

他のクリスチャンが、

「神様、私は、もっと、もっと罪深い人間です。」

こんな謙遜ゲームこそが、

むしろ、傲慢な自分の元となってしまっている。

 

よく怒る人とは、

ある意味、差別と偏見を持っている人が多い。

自分が満たされない現実を不満に思っていることで怒りが込上げては来ても、

怒りは、自分を正当化して、怒りの対象を、

無意識に見下げていることが多々存在する。

よく自由奔放な有名人などが、ユーチューブで怒ったり、正論を吐いたりすると思うが、

そのような方々とは、

自分自身の正論を述べながら、

その批判した対象者に対して、

自分とは、優位な存在者なんだと言っているようにも聞こえてしまう。

ある意味、恥ずかしい。

 

結局のところ、・・・

人間とは誰もが、

取税人を蔑んでいるパリサイ人と同様でしかない。

しかし、神様の前で、誰一人、義とされる人は存在しないことは、

パウロが示されたことです。


ロマ
「2:17 あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、
2:18 みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、
2:19 20 また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、
2:21 どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
2:22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。
2:23 律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。
2:24 「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。
2:25 もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。」

 

律法とは、自己を正当化する、罪人を製造する教えになりやすいわけです。

律法だけではなくて、

立派な行いを求めれば、

その人は、その行いによって、

神様の御前で、自分を正当化しているに過ぎません。

パリサイ人が、取税人を蔑み、自己を正当化したが、

それはマサキチ自身のうちに潜んでいる罪でしかありません。

自己の正当化とは、アダムが禁断の実を食べた結果もたらされた、

相対的堕罪です。

人間にある根本の罪です。


ロマ
「3:9 では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
3:11 悟る者はいない。神を求める者はいない。
3:12 すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」
3:13 「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。」「彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」
3:14 「彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」
3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。」
3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」・・・」

 

すべての人は、神に対する恐れがないのは、

人間が、無意識に、自分は大丈夫、自分は義と認められていると思っているからに他なりません。

しかし、パウロが主張しているように、

義人とは、誰もいないということです。

では、罪深い私とは、

どのようにすれば救いを得ることができるのでしょうか。


ロマ
「1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

 

「福音を恥としません」とは、

福音でしか、義と認められない、救いを受けることはできないことを主張しているわけです。

その福音を信じること、

つまり、神の愛(恵み・憐み)を受けることのみ、

私たちは、御父の前で、「天のお父さん」と呼べる信頼関係が与えられるというわけです。

 

信仰とは、行いではなくて、神が与えられた愛です。

 

なんか、偉そうなこと書いているが、

全部マサキチ自身に対する、自分への戒めです。

 

いってきます=