ロマ
1:23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
バー書には「神の栄光」について次のように解説している。
「神の榮光――神の顕された完全が人の心に投げ込む輝きである。此は人類に取って凡て善なるものゝ理想像である。これは人間の心の中に造られたものであつた。人間は之れから何を生み出したか。衷に神聖な人格を抱きながら之を全然反対なもので包んだ。寧ろ沈獣の中に放って置いた方が幸であったろう。そうすれば、これ程の冒瀆にはならなかったであろう(ゴーデー)。凡ての近代的研究は、宗教が下級の形式から上級に進化したものではなく、反って元始唯一信仰から下落を重ね、ますます深く堕落の深淵(シンエン)に沈んだものである事を証拠だてゝいる。」
近代主義への批判を通して神の栄光とは何であるかを端的に示されている。
神の栄光とは、啓示のことであるが、これは偶像とは正反対に位置する。
神の栄光は、神の側から発するエネルギーであり、それは人間にとっては大きな恵みである。
それに対して、偶像とは、人間側から発する観念(エネルギー)であります。
人間が神の栄光を求めるときでさえ、
もしも神が教示されたことに従うのではなく、
人間の意思によって理想的な神の栄光を求めるならば、
それは凡てが偶像に過ぎないということです。
啓示とは、神の側から発するご自身の栄光(現れ)であり、
偶像とは、たとえ如何なる善であっても人間側から発するアイデア(観念)である。
つまり、偶像とは、人間が作り出した信仰であり、
満足感(達成感)が伴います。
満足感とは人間による意欲熱心によってもたらされるが、
肉であれ、霊であれ、人間側から発する何かである限り、
満足感とは偶像の結果なのです。
教会を大きくすることも、
立派な神学を打ち立てることも、
果ては、愛なる牧会をすることさえ、
凡てが偶像化なのです。
満足感(達成感)は、その人に安らぎと安定を齎すかのように思えるが、
実は、神の側に立ち聞き従う謙遜なる精神は置き去りにされています。
満足感とは常に、人間側のドーパミンの作用に過ぎないからです。
ですが、
神から教えられた真理に立つこと、聞き従うことは、
決して偶像ではない。
キリストの十字架と共に歩む姿勢とは偶像は当てはまりません。
何故なら、人間的(肉的)満足感などは、
キリストの十字架信仰には存在しないからです。
キリストの十字架とは、
満足感に慕ってコーヒーショップで一人コーヒーを求めるような
心の充足感は存在しないからです。
つまり、
キリストの十字架の愛に聞き従うこと以外は、
人間の如何なる思考活動も偶像を免れません。
人間側から発するもの、それが立派な神学であっても、
その人に達成感や満足感を生じてしまうならば、
凡ての善き思考活動や働きですら、人間側の偶像に過ぎないのです。
神学に限らず、慈善活動もホームレスや被災地での炊き出しも、
凡ては個人の偶像(満足)に過ぎません。
Ⅰサム
15:23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
マサキチの若き頃、
いろんな神学が蔓延っていた。
とくにサードウエーブと呼ばれた異端には
大層悩まされたことを思い出します。
マサキチは、まだ学生だったのですが、
牧師に向かい、
「先生、私は普通の信仰を求めたいのです」
とその先生を抗議したことを思い出します。
今となっては、当時、マサキチが「普通の信仰」と呼んでいた信仰が、
こんなにも、満足も達成感も存在しない、ただ貧しい道であることがようやく分かった。
だが、この貧しい困難な道こそ、【主】のあわれみの道、むしろ富んでいる道だと言われている。
偶像ではないマサキチ自身の信仰とは、
ただ、神と人とに誠実に生きること、
そしてキリストの十字架の贖いを受けた者として、
常に十字架の道を負い求めて行くことであります。
この世の栄光を求めて、教会を大きくするのではなく、
十字架の道とは、
黙
2:9 わたしは、あなたの苦難と貧しさを知っている。だが、あなたは富んでいるのだ――
と言われたように、
貧しくも十字架の富によって進んで行く道であります。
孤独にも貧しさにも、果ては迫害にあっても進むことができるのは、
ただ十字架の愛(ヘセド)によるのです。
当時、養老院に保護された先人たちの貧しさを軽蔑さえしていたマサキチの信仰観であったが、
今は違う思いである。
貧しさに光り輝く、栄光の十字架の富を、御持ちになっていた。
マサキチが挨拶したら、笑顔で挨拶し返してくださったベッド上の先人たちの姿こそ、
まことの富を受けた聖人たちそのものであった。
確かに彼女彼らは信仰によって富んでいたのです。
今は、マサキチの恩師も高齢となり、
貧しくあり、そして栄光の富を掴んで離さないでいることでしょう。
すべては【主】のもの、
マサキチは、教会と母を愛し、その愛によって支えられてきました。
二つが滅び消滅するならば、マサキチもそれ以上、いのちを求めません。
マサキチも滅びへと進みます。
ですが、教会も母もすべて【主】のもの、
そしてマサキチのいのちも【主】のものと思いたいです。
教会も母も救いに預かるならば、
マサキチも最後は、
敬愛する教団の先人たちのように、貧しくも富んで天に召されたい一心です。
そのためにマサキチは未婚の道を進ませてもらったのです。
もしも、教会も母もマサキチのものと主張するならば、
そして、愛する女性と結婚し、子どもが与えられることを望むならば、
それはマサキチ自身の偶像でしかないからです。
献身とは、すべてをささげ、【主】の側(キリストの十字架)に立つことだからです。
ただ【主】に聞き従い、【主】によって導かれることのみ、
これ以外は、献身し牧師を目指したマサキチにとって、
偶像(自己満足)でしかありません。
自己満足(偶像)に陥らないためにも、「貧しさ」は必須なのです。
マサキチの母に洗礼が与えられえるのも、
教会が救いを得て、自立するのも、
ただ、主によってなされる、あわれみ(ヘセド)であり、
一切は【主】からの働きに委ねるべきなのです。
マサキチがすべきこと、
貧しいキリスト者として生き、
キリストの富によって進ませてもらうことのみです。
マサキチの強い意思によって勝ち取ることのできる「朽ちない神の榮光」などは存在しません。
マサキチの願望も思惟思考すべては偶像(自己満足)にすぎないからです。
教会形成や神学なるもの、一切は偶像に過ぎないのです。
ただ聞き従うこと、栄光の富(十字架の恵み)をもって生きることのみです。
いってきます=