行軍 | クリスチャンとして死ぬこと

クリスチャンとして死ぬこと

検索できない本当の信仰話をあなたの元に・・・・MAR.2011

ヨシ
「8:1 【主】はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民をすべて率い、立ってアイに攻め上れ。見よ、わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたの手に与えた。」

 

ヨシュアの民は、アカンの罪によって、

アイの住民に敗北してしまった。

決して戦いの強いアイの住民ではなかったが、

イスラエルの敗北は、

アイの住民に自信を与え、

イスラエルを、大きく見くびるようにさせたことでしょう。

「イスラエルは、単なる烏合の衆だ。恐れることはない。」・・・と

 

私たちキリスト者は、この世の人々からは常に見くびられている。

風貌だけ立派でも、精神的に軟弱な民だと。

しかし、私たちが、どんなに見くびられても、弱そうに見えても、

そんな見くびられた民が、あきらめない、そんな忍耐強さを見て、

敵は、どうして、そんなに頑張れるんだろうかと思い始め、

彼等は、マサキチの真面目な仕事ぶりを見て、むしろ真似し始めるようにされる。

マサキチが、生きるために、死の行軍をしている姿を見て、

一生懸命という美しさを真似し始めるのだ。

 

 これは、この世におけるキリスト者の特権である。

私たちに力があるはけではない。

むしろ弱い。

私たちは、ただ主に信頼し

その結果、進ませてもらっている者に過ぎない。

 

彼等がマサキチを見て弱っちく見えたのは、正しい判断だった。

しかし、その後が、この世の通常とは違っていたのだ。

弱い者であっても、進む勇気は、与えられる。

強い者であっても、進まず何してよいのか分からない民よりも、

断然に魅力的に見える。

 

堕落した人を、ひきつけさせ、

職場の人間にやる気と集中力と熱心さをもたらすのだ。

 

私たちにとって、私たち自身の弱さは、

むしろ、相手を凌駕する意味において、とても有意義だ。

敵は、言うだろう。

「お前らは、弱いから神を信じているのだ。お前たちの神は、どこに行ったのか、さあ、お前たちが慕う神を探すがよい、一生、探すがよい。」

 

確かに、一生探すでしょう。

しかし、神は、神を捜し続ける者と共にいて、

ご自身の民のために戦われる。

 

何故?

何故なら、

私たちの満足するところは、

この世で満足することではないからだ。

 

愛する人々に、いのちが与えられ、

マサキチが、そのいのちを見て安心するためであるからだ。

 

そのための行軍であり、

そのための戦いである。

すべてが、愛する人々と自分のために、

いのちを勝ち取るための戦いなのだ。

 

人間が勝利すれば、

私たちに、神の憐みと恵み、その背後に居られる神の導きを感じることはできない。

私たちは、弱く頼りないが、その中でこそ、

私たちは、神の憐みと恵みを経験することが許されるのだ。

 

マサキチは、今日も市中に向かう、

しかし、それは、人間における強さの行軍ではない、

ただ、イエス様を見続け、自分の弱さに溺れないようされる訓練だ。

イエス様を見つづけるときのみ、

私たちには希望も喜びも湧き起ろう。

ただ、自分を見てしまうときのみ、

強風に支配を受け、沈みかけてしまうだろう。

 

私たちは、強い者の前から、逃げるだろう。

だが、それは強風を見て怯えるためではない。

私たちが逃げるのは、

それは、神が、私たちと敵の間に立ち、神様が、戦われるのを知りたいがためだ。


ヨシ
「8:18 【主】はヨシュアに告げられた。「あなたの手にある投げ槍をアイの方に伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」ヨシュアは手にある投げ槍を町の方に伸ばした。
8:19 すると、伏兵はすぐその場所から立ち上がった。ヨシュアが手を伸ばすやいなや彼らは走り、町に入ってそれを攻め取り、ただちに町に火を放った。
8:20 アイの人々はうしろを振り返って見た。すると、町の煙が天に立ち上っていて、彼らには、どちらにも逃げる手立てがなかった。荒野へ逃げていたイスラエルの兵は、追って来た者たちの方に向き直った。
8:21 ヨシュアと全イスラエルは、伏兵が町を攻め取り、町の煙が立ち上るのを見たので、引き返してアイの人々を討った。」

 

さあ、神が、戦われる、その戦場へ向かいましょう。

愛する人々のいのちのために・・・その発見・確信のために、・・・。

私たちにとって、一番大切なことは、

勝利ではない、だからと言って敗走し続けることでもない。

主が私たちと共にあって、

私たちに、いのちを与えて下さっている、その確信のための行軍なのだから。

 

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