ヨシ
「7:1 しかし、イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った。ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶の物の一部を取った。それで、【主】の怒りがイスラエルの子らに向かって燃え上がった。・・・
7:10 【主】はヨシュアに告げられた。「立て。なぜ、あなたはひれ伏しているのか。
7:11 イスラエルは罪ある者となった。彼らはわたしが命じたわたしの契約を破った。聖絶の物の一部を取り、盗み、欺いて、それを自分のものの中に入れることまでした。
7:12 だから、イスラエルの子らは敵の前に立つことができず、敵の前に背を見せたのだ。彼らが聖絶の者となったからである。あなたがたの中から、その聖絶の物を滅ぼし尽くしてしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。
7:13 立て。民を聖別せよ。そしてこう言え。あなたがたは、明日のために自らを聖別しなさい。イスラエルの神、【主】がこう告げられるからだ。『イスラエルよ、あなたの中に聖絶の物がある。あなたがたがその聖絶の物を、あなたがたの中から取り除くまでは、敵の前に立つことができない。」
聖絶において、
私たちが自覚しなければならないこと、
それは、一点である。
戦いは、人間の戦いではなく、
神の戦いである。
もしも、その神の戦いを忘れて、
自分たちの戦いとし、
勝利した後、
打ち上げ飲み会のように、
自分たちの快楽へと進むならば、
それは、「ツァラアトに冒された十人」のお話に出て来る九人と等しく、
感謝なき自分勝手な信仰であろう。
ヨシュアは、必死になって祈った。
それは、今回のアカンの不遜の罪によってもたらされた敗戦の件だけではなく、
今まで、何度も何度もヨシュアは、その都度、
神に祈り求めた。
ヨシュアの祈るたびごとに、
「強くあれ、雄々しくあれ」
と主からの励ましを受けた。
彼の強さとは、
これからの彼の戦い、イスラエルの戦いが、
主の戦いであることの自覚に他ならない。
老年ヨシュアに向かって、
主は、ただ、「強くあれ、雄々しくあれ、」
と言われたのだから。
私たちは、都合よく祈り求めてしまう。
不正の裁判官の元へ、ひっきりなしに来て訴えにやって来たやもめのように、
私たちは、愛する人のために、必死になって祈り求めることでしょう。
しかし、祈りが成就した後、
神に感謝することを忘れて、
元の生活に戻ってしまうならば、
アカンの罪と等しく、
私たちは、聖絶品を自分のために拾い上げてしまったことになる。
私たちの祈りを聞いてくださたのは、
ただ主の恵み、憐みである。
私たちの戦いは、城を崩壊させる武器ではなく、神の愛であるはず。
私たちにできることは、
ただ、主の愛の中に留まっていること、
それによって勝利することのみではないか。
神への感謝の応答は、
私たち自身を、この世の罪から聖別することであろう。
アカンの罪は、
私たちの罪でもある。
罪は、キリストの十字架の血潮によって、洗い聖よめなければ、生きて行くことなどできない。
昨日は、母の検査があった。
母のため祈り求めて来た。
そして、
検査結果が、良好だったのに、
ふと、気を緩し、午後はぐっすりと休み続け堕落してしまった。
ほんま、罪深い、感謝の足りないマサキチであった。
感謝なき不愛なるマサキチであったことを自覚させられた。
アカンの罪=マサキ日の罪
いってきます=