ルカ
「18:1 いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
18:4 この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、
18:5 このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、 私は疲れ果ててしまう。』」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。
18:8 あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
信仰とは、自分勝手な理由で神様に祈り求めることではない。
たとえば、もしも、愛している家族や友人の病気の癒しのために、
神様にお祈りすることは、
神様に受け入れられることなのだろうか。
何故なら、
神様を利用しているに過ぎないのではないか、
神様を、その人たち以上に愛していないのに、
都合よく、神様にお祈りする、
そんな御利益的でしか神様に向かって祈れない、
そんな自分勝手な神様との関係性を知らされることだろう。
それが、不正な裁判官とやもめのやり取りの根底にある真理でもある。
私たち信仰者には、神様を第一とたアブラハムの信仰が示されました。
そして、モーセや、パウロの信仰が示され、
彼等のように神様を誰よりも第一に愛さなければならない、
そんな強迫観念を常に心に持ってしまう。
だから、
神様を一番としていない祈りなど不誠実そのものである。
私とは、ただ神様を利用しているに過ぎない、
そんな祈りなど、気がのらないし、シラケた思いがするものだ。
それが、祈りを躊躇してしまう、ある意味誠実な信仰者の感情だったりする。
しかし、愛するのは誰なのだろうか、憐れまれるのは誰なのか。
Ⅰヨハ
「4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
少なくとも、窮状を訴えるやもめが、神様を憐れむわけじゃない、
やもめは、神様から愛されなければ生きていけない、
私たちも同様ではなかろうか。
病気を癒したり、いのちを繋いだりすることのできる人は、どこにもいない。
信仰とは、神様が与えられた愛であります。
また、
恵みとは、全く値しない者にくださる神様の憐みと励ましである。
その神様の愛を、心で受けることができる、
その神様を求め続けることができる、
これが信仰である。
マサキチにできる唯一のことは、
その愛と一つとされた日常を送ることのみであろう。
キリストと一つとされる一日を歩むこと、
それが、マサキチにとっての、やもめの祈りであり、
そのようにできることが、
神のあわれみである。
「18:8・・・だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
この世の終末、
信仰、つまり神の愛が見えなくなってしまい、
人の心は、殺伐となり戦争人殺しが社会を支配するだろう。
全ての人は、
自分勝手な道を歩むようにされる。
牧師も御ことばを語る器でなくなり、
だれもが、その耳障りな牧師の説教から、
心を背けるようになるだろう。
それは、聞き手側だけに問題があるのではなく、
語り手である牧師にも愛が見えない、
この世を、神様以上に愛してしまっているからだろう。
Ⅰヨハ
「2:15 あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。
2:17 世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」
しかし、
最後まで耐え忍ぶことができるのも、ただ主の憐みであり、恵みです。
耐え忍ぶのではなく、キリストの愛に留まっていること、それ以上でもそれ以下でもない。
謙遜の霊をいただける者のみ、
最後の勝利者となれよう。
マサキチにとって、本当に尊敬できる信仰の模範者とは、
二人とも牧師ではなかった。
二人とも一般の信徒だった。
一人は、アメリカから来られた英会話の教師として伝道活動に来られたアイリッシュのアメリカ人、
そして、もう一人は、目の不自由な方々のための点字活動をしていた日本人男性である。
二人とも、マサキチにとっては大き過ぎる、愛の模範者であった。
誰よりも謙遜な霊を持たれた平和の人たちであった。
二人から教えられたことは、
ただ主の愛の中で生かさせてもらうことが、どれだけ大切なことなのか
この世の肉の繁栄ではなく、
ただ、主の憐みの中で生活していく霊性だ。
今となっては、大切な二人だったと思っている。
愛は行い(意志・思考・感情)ではない、
神が与えたもうた心の状態。
神の愛の中に留まるということとは、
それは、マサキチが、幼少時に見た一枚の絵、
を忘れないでいるということだ。
マサキチの母が、
薄暗い畳の居間で、
そのキリストの十字架の絵を説明してくれた思い出、
すべてが神の愛に留まることであろう。